<第667回例会>
日 時:2024年2月24日(土曜日) 午後3時~5時 (オンラインで実施)
参加事前登録の締め切り:2024年2月21日(水曜日) 午後11時59分
プログラム: ☆本居宣長から教育を考える―声・文字・和歌―
榎本 恵理 氏
司 会 大戸 安弘 氏
【プログラム・ノート】
「人はいかに他者とつながりあえるのか」、これが報告者の初めの「問い」である。その「答え」を求めて、江戸期の国学者本居宣長(1730‐1801)の思想の森に分け入った。2011年に書き上げた学位論文によって、その答えらしきものを見出すことができた。そのキーワードは、「メディアとしての和歌」である。生涯1万首を越える和歌を詠んだとされる宣長にとって、和歌を詠むとは何を意味していたのだろうか。詠歌は、独り己のうちにこもって作る今の短歌と異なり、あくまで一定の仲間や誰かに向かって、声に出して詠みだす行為である。他者の共感を惹き出す和歌こそ、宣長が目指したところであった。人の感性に依拠する「物のあはれ」論はその端的な表現である。和歌は「他者と己をつなぐメディア」だとみることができる。そこでは「文字」ではなく「声」が肝要となる。声を発する「身体」(己)の心が、場を同じくする受け手の感覚器官(目や耳)を通して届くからこそ、リアリティある共感が生まれ、他者とつながることができる。「声」が言語の本体というのは、宣長の譲れない主張であった。
この和歌論による宣長の思想は、儒学・漢学に対抗的に生み出された。中国古典漢籍の解釈を事とする儒学は、「文字」(漢文)に基づく規範の学(漢意/からごころ)である。世の学者たちは漢文で思考し道徳を語る。その結果、人の真情を覆い隠してしまった。それを「漢字の害」と宣長はいう。漢字のメディアが人の心まで変えたと宣長は認識していた。文字のメディアに対抗して、「声」=身体性の復権をめざしたのが宣長の学であった。声で語られた『古事記』を注釈した彼の『古事記伝』は、文字以前(「漢意」に染まる以前)の、「正しい声の日本語」の復元作業であった。
文字以前の言葉といえば、幼児の言語世界にほかならない。その後、このことに気づいた。宣長思想の基礎研究を、幼児教育のうちにいかに展開するか、それが学位論文以後の研究主題となった。声と身体の活動を通して、子どもの身心の発達や社会情動能力を高める可能性を論じることができるようになった。その成果の一端を「第二部」とし、先の学位論文の「第一部」と併せて、2023年3月に単著『本居宣長から教育を考える―声・文字・和歌―』(ぺりかん社)が刊行できた。
本報告では、二つの歌会に注目する。宣長は、『古事記伝』完成を機に、『古事記』中の神や人を詠み込んだ歌を門人たちに求め、「終業慶賀の歌会」を催した。また残された「遺言書」に、己の命日に歌会開催を求め、その手順まで詳細に指示した。この二つの奇妙な歌会、それに宣長が込めた意図は何だったのか。宣長が和歌に込めた意味を読み解きながら、この問題を考えてみたい。
〔榎本恵理氏 記〕