日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

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人間社会学部現代社会学科上田誠二研究室気付
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例会

日本教育史学会例会の開催

 日本教育史学会の例会は、会報やこのウェブページでお知らせする会場で、8月を除く毎月第4土曜日午後3時に開催されています。一人の報告者が、報告と討議をあわせて合計2時間の持ち時間で行います。通常の学会発表と異なり、充実した時間をつかた研究発表と討議が可能です。
 過去の日本教育史学会の例会記録は、『紀要』掲載の記録や記録のページをご覧ください。

例会の研究発表のご案内

 例会で研究発表を希望する会員は、日本教育史学会事務局にご相談ください。
 例会の研究発表者は、事前に事務局に「発表題目」とそれぞれ800-1000文字程度の「プログラム・ノート」(今回の発表内容の紹介)、800文字以内「発表者のプロフィール」(著書・論文や略歴などの紹介文の原稿)を提出してください。
 提出された発表題目やプログラムノートは、この日本教育史学会ウェブページで公開されます。このページに随時掲載しますので、ご参照ください。会員に送付する会報には発表者のプロフィールも含めた全文を掲載します。
受付 ahsej@ahsej.com【実際の送信はすべて半角英数字にしてください】


会場のご案内(例会開催場所)

 例会会場は、会報やこのウェブページに掲載します。永らく謙堂文庫を石川家のご厚意で使用しておりましたが、現在では立教大学などの大学会議室を借用しております。会場はその都度異なりますので、ご注意ください。
*2021(令和3)年2月からはオンラインでの開催をしております。

例会表示回数の変更
 2016(平成28)年4月より『日本教育史学紀要』第687頁(下記)に掲載のとおり、例会の回数表示を変更いたします。
「二〇一一年度以降の例会回数について、会報の号数と例会の通し回数が一致しない年がある(例会が実質開催されなかった月の存在等による)ことが判明しました。今巻より、例会の通し回数を優先させ、二〇一一年度からの例会回数を以下のように訂正いたします。二〇一一年度(第五四七回~第五五七回)、二〇一二年度(第五五八回~第五六八回)二〇一三年度(第五六九回~第五七九回)。」

活動報告

12月21日第674回例会(日本女子大学会場)鈴木敦史氏の研究発表【プログラム・ノート】

12月21日第674回例会(日本女子大学会場)鈴木敦史氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第674回例会>
*日   時:2024年12月21日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:日本女子大学 目白キャンパス 百二十年館3階 現代社会学科 実習室
*プログラム:明治十四年の地方巡幸における山形県での学校、生徒の対応
―『山形新聞』の記事に着目にして―
                 鈴木 敦史  氏
             司  会  大島  宏  氏

【プログラム・ノート】
 本報告は、明治十四年の地方巡幸での地域の学校や子どもたちの対応を、山形県を事例に検討するものである。
 明治期の地方巡幸は、明治維新後の近代国家形成期において新たな統治者としての明治天皇が、その近代的君主像を全国に広めるために行った「プロパガンダ」「ペイジェント」とされる。また教育史研究においても、後に御真影が各地の学校に「下賜」され拝礼が儀式化される以前の、実物の天皇が初めて人々の眼に触れた機会として位置づけられる。
 山形県への巡幸は明治十四年に実施され県内では天皇を迎える準備が進められたが、そこには明治7年に旧酒田県令に着任し、明治9年に成立した新制山形県ではその初代県令に就いた三島通庸の強い政治的リーダーシップがあった。
 本報告では、こうした地方巡幸での地域の学校や子どもたちの対応を、その様子を報じた『山形新聞』の記事を参考に検討する。『山形新聞』は、国学者平田銕胤のもとに学んだ豪農の遠藤慎七郎とその弟の司が山形活版社を興し、明治9年9月1日に第1号が創刊された。明治十四年巡幸当時は、国会開設の機運が高まるなかで、同年10月に自由党が結成されると県内でも新聞の政党機関紙化が進み、『山形新聞』も自由党の機関紙として内務省へ届け出た。また当時は、讒謗律とともに新聞紙条例(共に1875年)が出されるなど、言論に対する厳しい統制が布かれた。新聞各紙は露骨な反政府的態度は抑えつつも政府に対する批判的立場は保持していくという難しい運営を強いられていた。
 一方、山形への明治天皇の来訪を報じた当時の『山形新聞』の記事には、政治的党派性からは距離を置く、地域の実態を率直に伝えるものが少なくない。「土木県令」「鬼県令」として知られる三島通庸の山形での県政運営は、強権的で人々からの強い反発を招いた一方で、三島の進めた地域社会の近代化を評価する声は県内でも少なくなかった。地方巡幸での明治天皇の来訪を見越して進められた山形県内の近代化は、強権的な県政への不満と地域の開化への評価という三島県政に対する複雑な感情をもたらしながら進められたのであり、それが紙面にも表れたのだと考えられる。
 山形県への巡幸が実施された当時は、後に文部大臣に就いた森有礼が天皇への「忠誠」や「愛国心」を学校教育において醸成を図る以前の、地域社会における天皇の位置づけがいまだ定着していない時期であり、故に新たな統治者である天皇への地域社会の人々の、より率直な対応が見られる場面でもあった。加えて、明治12年以降に「教学聖旨」をめぐり政府内で展開するヘゲモニー争いにより、学校教育の位置づけが宮中保守派と開明派との間で交錯する不安定期でもあった。本報告では、こうした当時の地域の学校や子どもたちの明治天皇への対応を検討することで、天皇の位置づけが教育制度のなかで位置づく以前の、地域における天皇像の一端を明らかにしてみたい。
                   〔鈴木敦史氏 記〕

11月23日第673回例会(日本女子大学会場)宇津野花陽氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第673回例会>
*日   時:2024年11月23日(土曜・祝日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:日本女子大学 目白キャンパス 百二十年館3階 現代社会学科 実習室
*プログラム:1950年代の高等学校学科家庭科における被服教育の展開
   ―衣生活の変容と教育・家庭・職業―
                 宇津野 花陽  氏
           司  会   天野 晴子  氏

【プログラム・ノート】
 戦後の教育改革において新制高等学校の家庭科は、普通教育の教科としての家庭科と専門教育を主とする学科としての家庭科(以下、「学科家庭科」)の二つに分かれて成立した。学科家庭科はその性格により小学科(家政、被服、食物、保育など)に分類され、戦後当初は被服、食物、保育が示されて、被服についてまとまったカリキュラムをもつ被服関係学科が最多であったが、1952年に家庭生活教育に重点を置く課程として家政関係学科(家庭課程)が設置されて以降は家政関係学科が最多となっていった。
 これまで、学科家庭科についての研究としては家政関係学科の研究が中心であった。また、家庭科および前身諸科目の裁縫、家事などについて、教育史研究では良妻賢母のイデオロギーに焦点を当てた研究、家庭科教育、家政学の研究では教科書など教育内容の分析から教育的意義を考察する研究が多く、実生活との関係において教育の実態を捉える研究は少なかった。
 本報告は、制度的に職業教育に位置づけられた被服関係学科の機能に焦点を当て、1950年代において専門的職業教育機能を広く持たなかった歴史過程を論証することを試みる。1950年代に着目するのは、戦前の女子教育において裁縫の占める割合が高かったために被服教育の施設・設備や教員が多かった時期であり、洋装化・既製服化という衣生活の大きな変化とともに家庭での衣服製作の時間が縮小する一方で女性の職業機会も増大するなか、学科家庭科の被服教育が専門的職業教育機能をもつとすれば最も可能性の高い時期であったと考えられるからである。
 各自治体における学科家庭科の設置状況、施設・設備や教員の配置、教育課程、卒業後の進路など被服教育の実態を明らかにするとともに、地域差や階層差にも留意しつつ衣生活をめぐる女性の職業生活と家庭生活の実態を解明した上で教育との関係について論証する。資料としては、学科家庭科関係の資料(文部(科学)省資料、都道府県教育史、高等学校/洋裁学校沿革史誌、高等学校家庭科教科書、洋裁学校テキストなど)、産業および職業指導関係資料(工業統計、商業統計、職業指導雑誌、新聞広告など)、生活時間資料等を用いる。
                   〔宇津野花陽氏 記〕

10月26日第672回例会(学習院大学会場)氏の研究発表【プログラムノート】

 <第672回例会>
*日   時:2024年10月26日(土曜日)午後3時~5時(対面で実施)
*会   場:学習院大学北一号館2階教育学科模擬授業教室
*プログラム:「学徒隊」の構想とその具現―1939~45年の「有事即応態勢確立」論議に着目して―
                    須田 将司  氏
               司  会  前田 一男  氏

【プログラム・ノート】
本報告は、科研費補助金(基盤研究(B))「「戦時教育令」と教育の崩壊過程に関する総合的研究」(研究代表・斉藤利彦、2021~2023年度)の『研究成果報告書』(2024年3月)に寄せた論稿をもとに行う。
1945年5月22日の戦時教育令第三条には、「戦時ニ緊要ナル教育訓練ヲ行フ為」の「学徒隊」組織化が記された。同年6月6日の内閣情報局編『週報』に掲載された「戦時教育令の解説」は、「学徒隊」に関する内容が中心であり、その具現が最大の政策課題であったことが読み取れる。これはひるがえせば、その母体となった国民学校・青年学校単位の「大日本青少年団」と中等学校以上の「学校報国団」では、本土決戦に十分に対応することが出来ない、との政策決定がなされたことを意味する。だが、先行研究では、その政策課題が生まれる経緯や具現に関して論及したものはわずかである。本報告は、この点を1939年の「学徒隊編成問題」からの系譜で捉え直すことを試みる。
この着眼のきっかけは、2つの記事(論調)を見出したことにある。一つ目は、1944年1月の『興亜教育』誌上で文部省体育官・高橋眞照が述べていた、「大日本青少年団」と「学校報国団」が「二本建」であることへの疑義である。高橋の論調に添うならば、その後に登場した戦時教育令は両者の「二本建」を廃し、「一本化」を命じたものとなる。二つ目は、1945年3月27日付『朝日新聞』の論述である。そこでは「待望久しかつた学徒の戦闘的訓練組織“学徒隊”」といい、「そもへの提唱者は六年前の荒木文相であつた」と述べられていた。いわば1945年の「学徒隊」が1939年の〔荒木学徒隊案〕の改変である、との当事者意識が示されている。これら2つの記事を重ね合わせるならば、〔荒木学徒隊案〕→「大日本青少年団」と「学校報国団」の「二本建」→戦時教育令による「学徒隊」への「一本化」という歴史像が浮かび上がってくる。
この歴史像を検証するには、なぜ〔荒木学徒隊案〕の後に「二本建」の青少年組織が登場し、やがて問題視され、その解決策として「一本化」が浮上したのか、を辿ることが不可欠となる。その際、「有事即応態勢確立」という軍部の要求に留意したい。これは、〔荒木学徒隊案〕に内在し、1943年以降の論議において前面に出てくるキーワードである。この要求が、「学校報国隊」と「大日本青少年団」の「二本建」の不備を衝き、「一本化」へ至る論議を具体化させていくことを辿ってみたい。
これに加え、1945年の「学徒隊」結成による「新たな」事態(その具現の様相)を、本研究に関わる調査で明らかとなった新聞報道や各府県広報に捉える。これにより、「有事即応態勢確立」の要求がもたらした戦争末期の教育の姿を多面的に照らし出してみたい。
                           〔須田将司 記〕

7月27日第671回例会(オンライン実施)和崎光太郎氏の研究発表【プログラムノート】

<第671回例会>【プログラムノート】
*日   時:2024年7月27日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2024年7月24日(水曜日)  午後11時59分
*参加方法は、「インターネット上での例会参加の事前登録について」をご覧ください。
*プログラム:〈知的障害〉と学校
                       和崎 光太郎 氏
            司  会  前田 一男  氏
【プログラムノート】
 報告者は近年まで、〈青年〉など教育に関する概念の歴史、および学校の特にこれまで看過されてきたもの・ことの歴史に興味を抱き、研究を進めてきた。本報告では、これまでの報告者の研究成果を基礎として、教育史学として扱うには真新しい〈知的障害〉という概念が学校とどのようにリンクしているのか、その見取り図を描くことを試みたい。
 なぜ概念を対象とするのか。概念研究といえば、「実態なのか概念なのか」という問いが提示されがちであるが、この二項対立における「概念」ではなく、議論の段階ですべての実態は概念化されていることに常に意を用いたところの概念を研究対象とする。ここに概念史研究は、単に概念の意味変容をなぞるだけの作業ではなく、実態史のダイナミズム(力学関係)を支えた思想的基盤を解明するための必要不可欠な研究となる。
 〈知的障害〉という概念をターゲットとする理由は、社会的弱者を扱いたいという慈善的心情や義憤ではなく、これまで看過されてきたという穴埋め的な発想でもない。代替不可能な障害といわれる〈知的障害〉は、「学校の位置が社会や生活で占める部分が大きくなり、知識量とその操作能力が人の価値を左右するような時代では、知的障害児は生きづらい」(中村満紀男編『日本障害児教育史【戦後編】』明石書店、2019年、902頁)という状況を引き起こす特性をもつ者を集団として把握する概念であり、この意味において、〈知的障害〉と学校というテーマは近代学校またはそこで行われた教育の実態をよりリアルに炙り出し得ると考えるからである。この「生きづらい」状況は、学校内ではなく学校化された社会においては、小学校(小学部)より中学校(中等部)、中学校(中等部)より高等学校(高等部)、高等学校(高等部)より大学(高等部専攻科)と就学年齢が上がり、学校の機能が「知識量とその操作能力」に重きを置かれるにつれて顕著になる。例えば、高等学校ではなく特別支援学校高等部に在籍する生徒は、「高校生」ではない。しかし、「学校階梯に回収される可能性を持っていたあらゆる者がどう影響を受けたのか」(拙稿「ピラミッド型学校階梯の機能――包摂が生み出す「排除」、排除が生み出す「包摂」――」『大学史研究』第27号、2019年、197頁)という点から学校階梯を視野に収めるならば、高等部在籍生は「高校生」という他者を常に参照しながら自己を把握するのが常であり、特別支援学校生に半ば強いられているこのような「把握」は一体何なのか、この「把握」はどのように構築され、どこに向かおうとしているのかという問いに対して、現在の学問水準では何も回答できないのである。
 以上の問題意識から、本報告では、〈知的障害〉の現在の位置を定義レベルと社会的認識レベルで整理し、〈知的障害〉の成立史を学校との関係において整理することで、冒頭で述べた見取り図を提示したい。
                        〔和崎光太郎氏 記〕

6月22日第670回例会(学習院大学会場)田中智子氏の研究発表【プログラムノート】

<第670回例会>【プログラムノート】
*日   時:2024年6月22日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:学習院大学北一号館2階教育学科模擬授業教室
*プログラム:占領期における大学学生自治組織の成立過程およびその活動
                           田中 智子  氏
                   司  会  上田 誠二  氏

【プログラムノート】
 大学における学生自治組織は、政府・占領軍の民主化政策や学生たちの学園民主化運動の影響を受け、敗戦から数年の間に多くの高等教育機関において設立された。学生自治組織とは、当該大学の全学生をもって組織され、学内における学生たちの意思決定機関であるのみならず、学内外における学生運動の拠点でもあった組織のことである。学生自治組織は60年安保紛争や大学紛争など戦後の学生運動をリードし、特に大学紛争においては学生の自治権や学部の教育改革を大学側に認めさせる等、大学史上においても重要な存在である。
 しかしながら、その発足に至る背景や過程については未だ解明されていない部分が多い。戦後の学生自治組織の歴史についての先行研究としては、①各大学の沿革史、②戦後学生運動史研究があげられる。①については多くの場合、戦後の組織再編、あるいは学生の歴史として概略が述べられている程度である。②については1970年前後の大学紛争期に書かれたものが多く、全日本学生自治会総連合(全学連)など学生自治会連合組織の歴史が中心であり、学生自治組織の結成についてはその前史としてわずかに述べられているにすぎない。それら先行研究における初期の学生自治組織の評価としては、所謂「ポツダム自治会」とみる(敗戦直後に政府・占領軍の指導によって設立されたと揶揄する)もの、あるいは戦後復活した日本共産党の指導を受けて活動を行なっていたとするものも少なくない。
 しかし実際には、戦前期の自治活動・学生運動の影響や、戦後の民主化運動・占領政策、所謂「進歩的な」教職員の協力など、様々な要素が複合的に重なったことにより、戦後の数年間の間に全国的に学生自治組織が作られていったと考える。そこで本研究においては、大学学生自治組織成立に至る経緯および学生自治組織の初期の活動を、戦前期の学生自治の系譜、戦後の政府・占領軍の民主化政策、学園民主化運動、日本共産党および左翼学生団体の復活等、その背景にあると考えられる諸要素に言及しながら明らかにしていく。
本報告においては、前半では総論として明治期から第二次大戦後までの学生自治組織の系譜について、後半では各論として東京(帝国)大学・京都(帝国)大学・早稲田大学における戦後の学生自治組織の成立と初期の活動について述べていく。
                                       〔田中智子氏 記〕

5月25日第669回例会(学習院大学会場)三上敦史氏の研究発表【プログラムノート】

<第669回例会>【プログラムノート】
*日   時:2024年5月25日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:学習院大学北一号館2階教育学科模擬授業教室
*プログラム: ☆「非正規の学び」から見た日本の中等教育史
             三上 敦史 氏
        司  会  大島 宏  氏

【プログラム・ノート】
私は日本の中等教育史を研究してきた。中等教育は日本の教育制度の勘どころだと思う。『学問のすゝめ』や学制布告書から連綿と続く全員が平等な(と考えられる)日本社会において、人材選抜・育成の中核を担うポジションが中等教育であるからだ。しかし、その重要性にも関わらず歴史研究はまだ緒に就いたばかりであり(例えば、中等教育史研究会の設立は1986年)、令和の就活生お気に入りのビジネス用語で言えば「ブルー・オーシャン」である。若い研究者の続行が期待される。
これまでの私の研究対象は、近代の夜間中学、鉄道教習所、逓信講習所、各種検定試験、受験・修養雑誌、また戦後の大学別模試・通信添削等を実施した学生団体、河合塾を始めとする全国型予備校。これらは正規の中等教育機関ではないが、それと密接な(事例によっては骨絡みの)関係を持って中等教育を成り立たしめてきた存在である。私は「非正規の学び」と呼んでいる。これを補助線として引くと、日本の中等教育史は従来とは違った見え方になる。
例えば、一般に日本の教育制度は近代が複線型、戦後は単線型といわれる。しかし「非正規の学び」から見れば、①1903年「専門学校入学者検定規程」までは(一応)複線型の構築期で、②それ以降は事実上の男女別単線型へ徐々に移行、③既に完成していた男女別単線型から性差も撤廃したのが戦後学制改革であるが、副作用で柔軟性を喪失、④1961年「学校教育法等一部改正」(技能連携制度を創設)以降は徐々に柔軟性を回復していく時期と映る。
また、同様に戦後の高等学校と大学入試との関係を見れば、①1970年頃までは学力も(例えば芸術・体育のように)努力によって磨き上げる才能のように目される中、学生団体が情報の橋渡しをすることで大学と高等学校・予備校(および受験者)を繋いだ時期、②そこから2000年代頃までは(狭義の)学力と受験学力が分けて考えられるようになり、後者については知識を欠落のないように組み上げる技術のように目される中、全国型予備校が発信する受験テクニックと偏差値ランキングが大学と高等学校・中小予備校(および受験者)を繋いだ時期と映る。
今回はこうした点について報告する。ご参加の会員諸賢には「非正規の学び」という補助線の有効性についてご批正を賜りたい。 
                 〔三上敦史氏 記〕

3月23日第668回例会(学習院大学会場)青柳翔也氏の研究発表【プログラムノート】

3月23日第668回例会(学習院大学会場)青柳翔也氏の研究発表【プログラムノート】
 <第668回例会>
日 時:2024年3月23日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
会 場:学習院大学北1号館2階教育学科模擬授業教室
プログラム: ☆1880-90年代における唱歌(音楽)科中等教員養成の模索
                               青柳 翔也 氏
                    司  会   上田 誠二 氏

【プログラム・ノート】
 戦前日本の師範学校・中学校・高等女学校教員(以下、中等教員)養成について船寄俊雄は、高等師範学校・文理科大学に生じた帝国大学/アカデミズムへの「羨望と競争の意識」を批判的に分析・考察し、今も続く「大学や教育学部の内なるアカデミズム志向、教員養成重荷論を克服」する必要を提起した(『近代日本中等教員養成論争史論――「大学における教員養成」原則の歴史的研究』、学文社、1998年)。しかしこの指摘は、帝国大学に相当する学部・学科が存在しなかった学科目、とりわけ近代的学問システムの基底をなす論文業績主義の適用が今なお保留されている芸術・体育等の分野に対し、直ちには当てはまらない。帝国大学による学校支配がもたらした教員養成の可能性や隘路は、その背景をなすアカデミズムの歴史性を踏まえ考察する必要があるといえ、そのさい帝国大学/アカデミズムに占める位置をもたなかった分野は重要な検討対象となりうる。こうした課題意識のもとに報告者は、帝国大学による学校支配が確立した1900年代以後における音楽科中等教員養成の展開について、音楽専門家養成との歴史的関係を踏まえた検討・考察を行なってきた。
では、1900年代以前はどうだったのか。周知の通り、近代日本の学校教育において唱歌科は「当分之ヲ欠ク」という但し書きとともに制度化され、1879年に文部省内に設置された音楽取調掛がその実施を主導した。同掛による教員養成については、その可否をめぐって文部省内に意見の対立が生じていたことが指摘されてきたが、1887年に同掛が(旧)東京音楽学校へと改組され中等教員を養成する機能が与えられたのちも、同校出身者の教員社会への進出が必ずしも順調に進まなかったことは知られていない。加えて、同校の音楽科中等教員養成は音楽専門家養成と事実上未分化であり、その役割も唱歌の普及という初等教育上の課題と不可分だった。このことは、1900年代以後の音楽科中等教員養成の展開を意味づけるうえで、重要な論点をなすと考える。
本報告では、上記の課題意識を交えつつ、1880-90年代における唱歌(音楽)科中等教員養成の展開を整理・検討する。そのさい具体的には、音楽科を専門的に教授する教員の制度的地位と、その普通教育上の役割をめぐる議論に着目し、模索段階における唱歌(音楽)科中等教員養成のありように考察を加える予定である。
                                                                                               〔青柳翔也氏 記〕

2月24日第667回例会(オンライン実施)榎本恵理氏の研究発表【プログラムノート】

<第667回例会>
日 時:2024年2月24日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
参加事前登録の締め切り:2024年2月21日(水曜日)  午後11時59分
プログラム: ☆本居宣長から教育を考える―声・文字・和歌―
                                 榎本 恵理 氏
                     司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
 「人はいかに他者とつながりあえるのか」、これが報告者の初めの「問い」である。その「答え」を求めて、江戸期の国学者本居宣長(1730‐1801)の思想の森に分け入った。2011年に書き上げた学位論文によって、その答えらしきものを見出すことができた。そのキーワードは、「メディアとしての和歌」である。生涯1万首を越える和歌を詠んだとされる宣長にとって、和歌を詠むとは何を意味していたのだろうか。詠歌は、独り己のうちにこもって作る今の短歌と異なり、あくまで一定の仲間や誰かに向かって、声に出して詠みだす行為である。他者の共感を惹き出す和歌こそ、宣長が目指したところであった。人の感性に依拠する「物のあはれ」論はその端的な表現である。和歌は「他者と己をつなぐメディア」だとみることができる。そこでは「文字」ではなく「声」が肝要となる。声を発する「身体」(己)の心が、場を同じくする受け手の感覚器官(目や耳)を通して届くからこそ、リアリティある共感が生まれ、他者とつながることができる。「声」が言語の本体というのは、宣長の譲れない主張であった。
 この和歌論による宣長の思想は、儒学・漢学に対抗的に生み出された。中国古典漢籍の解釈を事とする儒学は、「文字」(漢文)に基づく規範の学(漢意/からごころ)である。世の学者たちは漢文で思考し道徳を語る。その結果、人の真情を覆い隠してしまった。それを「漢字の害」と宣長はいう。漢字のメディアが人の心まで変えたと宣長は認識していた。文字のメディアに対抗して、「声」=身体性の復権をめざしたのが宣長の学であった。声で語られた『古事記』を注釈した彼の『古事記伝』は、文字以前(「漢意」に染まる以前)の、「正しい声の日本語」の復元作業であった。
 文字以前の言葉といえば、幼児の言語世界にほかならない。その後、このことに気づいた。宣長思想の基礎研究を、幼児教育のうちにいかに展開するか、それが学位論文以後の研究主題となった。声と身体の活動を通して、子どもの身心の発達や社会情動能力を高める可能性を論じることができるようになった。その成果の一端を「第二部」とし、先の学位論文の「第一部」と併せて、2023年3月に単著『本居宣長から教育を考える―声・文字・和歌―』(ぺりかん社)が刊行できた。
本報告では、二つの歌会に注目する。宣長は、『古事記伝』完成を機に、『古事記』中の神や人を詠み込んだ歌を門人たちに求め、「終業慶賀の歌会」を催した。また残された「遺言書」に、己の命日に歌会開催を求め、その手順まで詳細に指示した。この二つの奇妙な歌会、それに宣長が込めた意図は何だったのか。宣長が和歌に込めた意味を読み解きながら、この問題を考えてみたい。
                                 〔榎本恵理氏 記〕

1月27日第666回例会(学習院大学会場)近藤健一郎氏の研究発表【プログラムノート】

<第666回例会>
日 時:2024年1月27日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
会 場:学習院大学北1号館2階教育学科模擬授業教室
プログラム:
 「琉球政府期の沖縄における文部省派遣教育指導委員をめぐって」
                                近藤 健一郎氏
                     司  会   上田 誠二 氏

【プログラム・ノート】
 ここ数年報告者は、アメリカ統治下にあった沖縄に対して、1959年以降文部省が派遣した教育指導委員に注目して調査研究を行なっている。例会当日は、報告者がこの間行なってきた教育指導委員をめぐる調査研究の現状と今後の課題を報告したい。
 報告者は「方言札」に注目しながら近代沖縄における標準語の普及にかかわる政策と実態について調査研究を進めてきた(「方言札の広がりととまどい―『普通語ノ励行方法答申書』(1915年)を中心に」、法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』第44号、2017年など)。そして沖縄戦後にも、標準語励行そして「不正語矯正」などの琉球諸語(沖縄方言)の抑圧は継続していたのであり、近代沖縄にとどまらず、沖縄戦後も対象時期とすることばの教育史を描かなければならないと、報告者は考えている。教育指導委員をめぐる調査研究も、報告者にとってはこの一環に位置づいている
 そのような考えは、関連する研究状況と史料状況によっている。沖縄戦後の標準語教育に言及した代表的なものである小熊英二「1960年の方言札」(小熊『「日本人」の境界』新曜社、1998年)において彼自身が注記しているように、沖縄教職員会に注目し、主に同会の史料(教研集会報告書等)によって叙述されている。沖縄戦後史の焦点は、復帰運動と施政権返還の実現にあり、前者の中心には沖縄教職員会があったから、この注目は有効なものではある。しかしながら、沖縄での教育の展開を明らかにしようとするとき、日本本土の日本教職員組合と文部省(あるいは自民党)ほどではないにしても、沖縄においても沖縄教職員会と琉球政府文教局の対立がみられたことは注目しておかなくてはならない。図式的に整理すれば、日教組と強いつながりをもつ沖縄教職員会のみに注目することでよいのだろうか。
 そして報告者は、沖縄教職員会の前身といえる諸団体の初期の機関誌や、琉球政府文教局が刊行し続けていた広報誌『文教時報』の復刻版の編集を、藤澤健一氏(福岡県立大学)とともに行なっていたから、史料的にも琉球政府文教局さらには文部省に注目することもできるのではないかという見通しも持ち得ていた。
 本報告では、日本本土の教育課程や教育実践が沖縄にもたらされる一つの経路となった文部省派遣教育指導委員をめぐって、次のような構成で報告を行なう。
1、文部省による教育指導委員派遣はどのようにして始まり、続いたのか
2、教育指導委員はどのようにして選ばれたか
3、教育指導委員は沖縄においてどのような指導を行なったのか
4、報告者にとってのこれからの課題
                             〔近藤健一郎氏 記〕

12月23日第665回例会(オンライン実施)山崎奈々絵氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第665回例会>
*日 時:2023年12月23日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2023年12月20日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆:戦後初期の義務教育教員養成における教育実習
                              山崎奈々絵 氏
                    司  会  須田 将司 氏

【プログラム・ノート】
 報告者は戦後教員養成に関心を持ってきたが、とくに近年は、戦後初期の教育実習についての研究を進めてきた。
 戦後教員養成改革は、視野が狭い、教え方や人間性において型にはまっている、学力が低い、視野が狭い、国家権力に従順で統制されやすいといった多様であいまいな意味を持ってきた師範型を克服することが課題であった。こうした課題のもと、やり方によっては教え方の型にはめる役割を大いに担いやすい教育実習をいかに改革するかは重要だった。教育実習は、ほぼ唯一、学校の実際から学ぶ科目であったため、実習を通して学ぶ実際と他の科目を通して学ぶ理論をどのように関連づけていくか、教職専門教育の中にどう位置づけるか、養成教育全体にどう位置づけるかなどをめぐり、再検討を迫られた。そもそも教育実習は、大学の科目であるにもかかわらず、大学の外にある実習校に内容や評価の多くを依存せざるを得ないため、たとえば実習校の負担をどう捉えるか、実習生の中には教職に就職しない者もいるという現実をどのように捉えるか、実習を通して何を学ぶかといったことをめぐり、大学側の論理とは異なる論理が強調され、看過できない場合も多い。
 教員養成は、大学、実習校、行政、国家など、多様なアクターが絡み合う構造的特質を持つが、教育実習はそれが顕著である。多様なアクターが絡まり合う中で教育実習のあり方が決まっていくプロセスやそこでの課題などを時代状況に即して明らかにしていくことは、教育実習だけでなく教員養成全体の実態や到達点、課題を時代ごとに整理していくことにつながるのではないか。
 先行研究を見ると、教育実習については概説的なもの、教職専門教育に関する研究の中で言及されてきたもの、少数の事例研究などに限定されており、十分な蓄積がされていない。これに対し、報告者は2021年の論稿で、多様なアクターに着目した研究や具体的な事例研究、実習校(大学附属も含んで)の実際に着目した研究、戦後から現在までキーワードとして繰り返し浮上している「観察・参加・実習」の詳細や実際に着目した研究などを今後進展させて必要があるのではないかと述べた。こうした課題意識のもとで近年進めてきた報告者の研究について報告をしてみたい。
                               〔山崎奈々絵氏 記〕