日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

〒112-8681
東京都文京区目白台2-8-1日本女子大学

家政学部家政経済学科天野研究室気付
TEL 03-5981-3502(代)
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ahsej.com

例会

日本教育史学会例会の開催

 日本教育史学会の例会は、会報やこのウェブページでお知らせする会場で、8月を除く毎月第4土曜日午後3時に開催されています。一人の報告者が、報告と討議をあわせて合計2時間の持ち時間で行います。通常の学会発表と異なり、充実した時間をつかた研究発表と討議が可能です。
 過去の日本教育史学会の例会記録は、『紀要』掲載の記録や記録のページをご覧ください。

例会の研究発表のご案内

 例会で研究発表を希望する会員は、日本教育史学会事務局にご相談ください。
 例会の研究発表者は、事前に事務局に「発表題目」とそれぞれ800-1000文字程度の「プログラム・ノート」(今回の発表内容の紹介)、800文字以内「発表者のプロフィール」(著書・論文や略歴などの紹介文の原稿)を提出してください。
 提出された発表題目やプログラムノートは、この日本教育史学会ウェブページで公開されます。このページに随時掲載しますので、ご参照ください。会員に送付する会報には発表者のプロフィールも含めた全文を掲載します。

会場のご案内(例会開催場所)

 例会会場は、会報やこのウェブページに掲載します。永らく謙堂文庫を石川家のご厚意で使用しておりましたが、現在では立教大学などの大学会議室を借用しております。会場はその都度異なりますので、ご注意ください。

例会表示回数の変更
 2016(平成28)年4月より『日本教育史学紀要』第687頁(下記)に掲載のとおり、例会の回数表示を変更いたします。
「二〇一一年度以降の例会回数について、会報の号数と例会の通し回数が一致しない年がある(例会が実質開催されなかった月の存在等による)ことが判明しました。今巻より、例会の通し回数を優先させ、二〇一一年度からの例会回数を以下のように訂正いたします。二〇一一年度(第五四七回~第五五七回)、二〇一二年度(第五五八回~第五六八回)二〇一三年度(第五六九回~第五七九回)。」

活動報告

2020年3月28日(土) 第640回例会:須田将司氏【プログラム・ノート】

日時:2020月3月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 地下1階 第2会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:大日本青少年団の錬成論―「共励切磋」の提唱と展開―
須田将司 氏(東洋大学)

【プログラム・ノート】
 1941年3月14日に文部省訓令第2号「大日本青少年団ニ関スル件」が発せられた。その第二条には「皇国ノ道ニ則リ男女青少年ニ対シ団体的実践鍛錬ヲ施シ共励切磋不抜ノ国民的性格ヲ錬成」との目的が掲げられた。それは、学校における「基礎的錬成」をベースに、青少年団の「団体的実践鍛錬」によって「共励切磋」を内面化した青少年の形成をめざす構想であった。なかでも「共励切磋」は大日本青少年団独特の用語として、先行研究(上平泰博)では学校教育の「同一年齢」に対し「異年齢の隊組織」を前提とする「別個の教育原理」と指摘されてきた。
 しかしながら、いかなる経緯で登場し、錬成の具体的イメージとして展開が図られたのか、未だ十分に捉えられていない。「共励切磋」が目指した錬成の姿とは、どのような独自性や限界があったのか。
 ヒントとなるのは、文部省訓令第2号の策定当初は「共励切磋」が無く、団体名も「大日本青年団」であったことである。これが「大日本青少年団」と修正されていく過程で、「共励切磋」も入り込んでいる。青年団を青少年団とすべきと修正意見を出したのは、1930年代に学校少年団の組織化を主導してきた帝国少年団協会であった。彼等の少年団論に「共励切磋」のルーツがあるのかどうか、精査が必要である。
 一方、1930年代に報徳教育から派生していった「学校常会」論が、大日本青少年団幹部層により「共励切磋」と重ねて論じられていった。
 これらを「共励切磋」の提唱と展開ともいえる動向を、1930年代の帝国少年団協会の刊行物、1940年代の大日本青少年団の機関誌類、さらには各地の実践報告類などを参照しながら照らし出すことを試みたい。
〔須田将司氏 記〕

2020年2月22日(土) 第639回例会:矢澤静二氏【プログラム・ノート】

日時:2020月2月22日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 2階 会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:『伊藤泰輔日記』が語る二・四(教員赤化)事件―長野県上伊那地域の事例にみる―
矢澤静二 氏(長野県伊那市近現代史講座講師)

【プログラム・ノート】
 二・四事件とは、昭和8年2月4日に始まり、治安維持法違反をもって長野県下の社会主義運動、労働運動、青年運動に対して実行された大検挙事件である。検挙取調者総数608名のうち教員が66校230名を占めたため、全国未曽有の”教員赤化事件”として喧伝された。この赤化事件について、『抵抗の歴史』で画期的に周知され、以後、新資料発掘と共に前田一男先生をはじめ優れた研究がなされ、昨年『長野県教員赤化事件―関連史料集』も発刊された。二・四事件の中心的当該者がその体験を基に著した記録著書等が重要資料として研究されてきた。しかし、地元新聞に「大検挙の中心地帯」と報道された上伊那地域でありながら、手がかりとする資料が極めて乏しかったことから調査研究はされて来なかった。近年、昭和6年~33年まで伊藤泰輔が克明に記した日記及び関連資料が発見された。上伊那の中心校伊那小学校長かつ二・四事件で検挙者を出した該当校校長であり、更に上伊那教育会の中枢的立場(副会長)にあり、信濃教育会評議員であった伊藤の遺した資料は、事件の展開に即応した学校現場の状況や苦悩が見て取れる非常に貴重なものである。『伊藤泰輔日記』を基に、地元新聞記事等で後付けをして、以下の点に重点を置いて発表させていただきたいと考えている。①二・四事件の発端となった上伊那地域の教育現場及び地域の当時の状況についてより具体的に検証する ②検挙者を出した当該校長の対応の様子やその苦悩を明らかにする ③二・四事件の拡大に伴う、地域議会や国会・県会での責任追及と対応について考える ④二・四事件関係者に対する処分及び復職の状況について問題点を明らかにする ⑤二・四事件と長野県・上伊那地域からの満蒙開拓青少年義勇軍送出との関連について考える。ご教示の程よろしくお願いしたい。
〔矢澤静二氏 記〕

2020年1月25日(土) 第638回例会:萩原真美氏【プログラム・ノート】

日時:2020月1月25日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 太刀川記念館 1階 会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:占領下沖縄における社会科成立史にみる教育政策方針―「沖縄の道」に着目して―
萩原真美 氏(お茶の水女子大学)

【プログラム・ノート】
 本発表は、拙博士学位請求論文「占領下沖縄における社会科成立史研究」(お茶の水女子大学、2019年3月22日授与(甲号第295号)に関する報告である。拙博士論文は、全Ⅲ部構成で、序章、第Ⅰ部 占領下沖縄における社会科成立の背景―六・三・三制導入に至る経緯―(第1章~第4章)、第Ⅱ部 占領下沖縄における社会科前史―人文科公民、地理、歴史―(第5章~第8章)、第Ⅲ部 占領下沖縄における社会科の成立(第9章)、終章からなる。
 拙博士論文では、占領下の沖縄において、日本の戦後教育改革の目玉の一つとされた社会科が、いかなる過程を経てどのような性質の教科として成立したかを検証した。沖縄の社会科の場合、占領下の沖縄に最も早く導入された本土の教育制度である六・三・三制に伴って設置された。社会科成立の直接的な要因である六・三・三制を導入するに至るまでの過程において、占領下沖縄における教育政策の実施にあたり、沖縄の独自性を尊重し、新たな沖縄を建設していこうとする精神(姿勢)である「沖縄の道」が重視された。その一方で、本土との結びつきを保ちたいという考えである「本土並み」を志向する動きもあり、「沖縄の道」と「本土並み」の間で揺れ動きながら、占領教育政策が実施されていた。
 ところで、「沖縄の道」とは、米軍の対沖縄占領政策方針である、沖縄の独自性を尊重するという方針に基づき、沖縄の教育行政側が考案した用語である。1946年にガリ版刷り教科書の編纂方針である「初等学校教科書編纂方針」と併せて出されたと推察される、「一、編纂方針の具体化」に、「沖縄の道(新沖縄建設の精神)」という項目が挙げられたのが初出である。具体的には、戦時下とは異なる、沖縄の固有の歴史等に立脚した沖縄固有の教材が盛り込まれた教科書を作成し、それに基づいて教育を行うことで沖縄の再建を目指すもので、戦時下の教育指針であった「皇国の道」を改め、「沖縄の道」と称したと推察される。
 本発表では、占領下沖縄において教育政策を進めるにあたり重視された「沖縄の道」に着目することで、占領か沖縄における教育政策の特徴やその方針に込められた沖縄復興への思いを示したい。拙博士論文の序章、第1章及び第2章の教科書編纂方針に関わる部分を中心に、同方針の立案に大きくかかわった人物である仲宗根政善の言説と照らし合わせながら、同方針に込められた教育による沖縄復興への思いをみていく。
〔萩原真美氏 記〕

2019年12月28日(土) 第637回例会:加藤雄大氏【プログラム・ノート】

日時:2019月12月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 地下1階第2会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:第6期教育指導者講習(IFEL)一般教育部門における講習内容」
加藤雄大 氏(日本大学・院)

【プログラム・ノート】
 本報告では、教育指導者講習(Institute for Educational Leadership;以下では「IFEL」と表記)一般教育部門における講習の内容を検討する。具体的には、本報告における一連の作業を通して、戦後高等教育改革関係者らの間で重要なものとして認識されていた「一般教育を通じて、学生を民主主義社会の担い手である「良き市民」として養成する」という理念が、どのような形で現場の大学教員に伝えられたのかという点を考察していきたいと考えている。この点について検討していくにあたり、本報告では特に「1951年1月8日から3月31日まで」(高橋寛人「解説 IFELと本書収録資料について」『占領期教育指導者講習(IFEL)基本資料集成 第1巻』すずさわ書店、1999年、21頁)開催された第6期IFEL一般教育部門(1950年)における講習内容に着目する。
 報告者はこれまで、上記の一般教育の理念が、実際に一般教育科目を担当する各大学の教員の間でどのように受けとめられてきたのかということに関心を持ち、戦後高等教育改革に直接関与することのなかった地方の一般教育担当教員の議論の内容を研究してきた。その過程で、報告者は「一般教育においてどのようなことを重視するのかという点について、当時の高等教育改革関係者と実際の大学教育の現場で一般教育科目を担当する大学教員の間に認識の相違があった」のではないかという考えを持つに至った(拙稿「近畿地区大学一般教育研究会における一般教育に関する議論の展開――第6回・第7回研究協議会(1952-53年)を手がかりに――」(大学史研究会『大学史研究』第28号、2019年、印刷中))。
 それでは、そのような戦後教育改革関係者と現場の一般教育担当教員との間の「認識の相違」は、いつ、どの時点から生じていたのだろうか。本報告を通じて、この点を今後より詳細に検討していくための示唆を得たいと考えている。
〔加藤雄大氏 記〕

2019年11月23日(土) 第636回例会:鈴木敦史氏【プログラム・ノート】

日時:2019月11月23日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 2階 会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:山形県庄内地方における公立小学校の設立と天皇像の醸成―明治14年の天皇巡幸に着目して―
鈴木敦史 氏(東海大学)

【プログラム・ノート】
 本発表では、明治期の山形県庄内地方において公立小学校が設立されてゆく過程を、明治14年に行われた天皇巡幸との関係に着目しながら検討する。その際、当時、庄内地方が有した地域の政治的課題との関係性に配慮し、そうしたなかで公立小学校の設立が地域社会において求められていくことの意味と、そこで醸成されてゆく天皇像について検討を行う。
 明治維新後、旧藩勢力の影響力が温存された山形県庄内地方では、県政をめぐる地域の農民層と支配者層の相互不信から、政治的混乱が生じていた。明治2年10月に納税免除や貸米の利息引き下げを要求して起こった天狗騒動は明治5年まで続き、騒動はその後、石代納と顕官の不正追及を求める一大要求となり、ワッパ騒動へと展開していく。それは、農村に住む人々の県政への不満の現れであった。こうした混乱に対処し、明治政府の近代化策の一環として、道路整備や学校教育政策を推進したのが、県令の三島通庸であった。
 明治7年に三島通庸が第二次酒田県令として着任すると、地域社会の近代化が急速に進められた。三島の近代化策は、土木事業と学校教育を重点課題としたが、とりわけ学校教育に関しては、「模範」的な「盛大ナル一学校」を創設することによる地域教育の振興が図られた。
 明治9年8月に創設された朝暘小学校は、同7年に設立された苗秀学校を前身として、洋風建物で新築され、地域の開化の象徴となったが、同校の設立は、上述のような三島の近代化策の一環として位置づけられる。こうした三島の学校教育政策は、同じ庄内地方に位置する酒田においても、琢成学校の設立という形で実現されてゆく。そして両校は、明治14年に実施された天皇巡幸で、天皇の訪問を受け、地域開化の象徴としてアピールされる。
 本発表では、三島通庸の県政運営のなかで地域社会に公立小学校が設立されてゆく過程を、明治14年の天皇巡幸との関係性に配慮しながら検討する。そして、そうしたなかで醸成される天皇像の一端にも言及をしていきたい。
〔鈴木敦史氏 記〕

2019年10月26日(土) 第635回例会:佐藤環氏【プログラム・ノート】

日時:2019月10月26日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 地下1階第2会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:戦前期の中学校・高等女学校における弓道教育
佐藤環 氏(茨城大学)

【プログラム・ノート】
 文武兼修を旨とする近世の藩校において武芸教育の柱として弓道は位置付けられた。しかし幕末期になると、砲術に比して実効性に欠けると講武所の教授武芸から除かれる。明治維新期に弓術は低迷するが、明治中期以降、大学や専門学校、そして中等学校の課外活動として受容されていく。大学・専門学校が主宰する弓道大会や道府県体育連盟が主催する大会の種目として採用されるようになる大正期から昭和戦前期にかけて、中等学校の弓道部の活動が活発化していく。
 本報告は、大正期から昭和戦前期にかけての中学校と高等女学校の弓術(弓道)教育の展開について考察することを目的とする。
 中学校については、山形県を事例としてとりあげる。大正中期までは校内の競射会へ参加するなど課外活動として細々と弓道活動が行われていた。弓道作興の契機は大正9(1920)年の官立山形高等学校の設置である。山形高等学校では弓術を正科(但し選択科目)とし、指導者として第二高等学校弓術師範の阿波研造を招聘して教導体制を整備するとともに山形県下の中等学校に対して弓道大会を主宰した。それに加えて、昭和3(1928)年からは山形県中等学校体育連盟主宰の体育大会が開かれるようになり、それらで優勝することを目標にして弓道部活動は活性化した。山形県下で行われた弓道大会は、全国大会である明治神宮弓道演武大会や全国中等学校弓道大会へ出場するための予選という性格を持っており、各中学校の弓道部は全国大会出場に向けて切磋琢磨した。
 高等女学校については、新潟県を事例としてとりあげる。大正後期から昭和前期にかけて弓道部活動は学内のみならず各高等女学校間での交流試合、そして大正12(1923)年から昭和17(1943)年まで続いた新潟県(1931年より中等体育連盟、1941年より中等学校学徒報国団)主催の女子中等学校運動大会へと拡充・発展していく。その団体戦と個人成績を見ると、弓道部の実力については伝統校が必ずしも優位という訳ではなく、大正期創設の新設校が健闘しているため、各校伯仲といった状況で推移した。このことは、新潟県の高等女学校弓道教育の程度が各校とも一定水準を保つまでに向上していたことを示すが、理由として他校との交流試合や女子中等学校運動大会という大舞台で鎬を削ることができる環境が提供されたことが大きく影響した。
〔佐藤環氏 記〕

2019年9月21日(土) 第634回例会:小野雅章氏【プログラム・ノート】

日時:2019月9月21日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 2階会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:旧開智学校所蔵史料の概要とその性格――国宝指定内定の一つの要因としての資料群
小野雅章 氏(日本大学)

【プログラム・ノート】
 2019年5月に文化審議会の答申により、旧開智学校校舎が国宝となることが内定となった。今回の国宝指定は、近代建築の遺構としての旧開智学校校舎の価値が認められたものである。国宝指定の答申理由について、文化庁は以下のように説明している。

  旧開智学校校舎は明治9年に建設された。漆喰塗の外壁を持つ2階建の屋根上に八角形の塔を載せる姿は、洋風を
  基調としつつ和風の伝統意匠を織り交ぜて、擬洋風建築特質 を濃厚に表す。内部には級別の教室や広い講堂を
  備え、学校建築として先駆的な計画性を 示している。近代の学校建築として初めての国宝指定となる。
                 (「報道発表 国宝・重要文化財(建造物)指定について」2019年5月17日)

 現存する擬洋風校舎で、最古のものは長野県佐久市旧中込学校校舎であり、旧開智学校校舎ではない。それにもかかわらず、今回国宝指定の答申がなされたのは、旧開智学校校舎の建築史における評価とともに、「学校建築として先駆的な計画性」を、旧開智学校所蔵の資料のなかから論証したこともその理由のひとつであった。教室数や面積、そこに設置された教具や学校家具の実態、具体的な教育実践の内容が、学校日誌、その他の文書資料、教授法書や教科書・掛図などの教材類から明らかできるのである。報告者は、建築史の研究者が典型的な擬洋風校舎であると判断した旧開智学校校舎で実施された具体的な教育の実態(級別の教室や広い講堂における教育実践)を、所蔵資料で論証できるため、文化庁が「学校建築としての先駆的な計画性」と評価した事がらの詳細とその具体像が明らかにできることが、他の擬洋風校舎にはない旧開智学校校舎の大きな特徴といえる。
 報告者は、今回、松本市教育委員会の依頼で、文化庁へ提出した報告書である『重要文化財旧開智学校校舎調査研究報告書』(重要文化財旧開智学校校舎、2019年)の作成の過程で、教育史の側から現行の全体を通読し、調整にあたった。この作業の一環として、旧開智学校所蔵資料についても再検証を行った。旧開智学校所蔵資料の調査は、1943年の開校70周年記念の記念事業である史料展覧会に際して、海後宗臣が監修者として参画する時点で3回にわたる史料調査を行ったことにより、その価値が全国的に認知されるようになった。その後、市制80周年の記念事業として『史料 開智学校』(全21巻)の出版が企画され、佐藤秀夫が監修者として参画した。この事業により、旧開智学校所蔵資料のなかの文書資料については、その全体像の把握と重要史料の翻刻出版が行われ、史料研究の到達点を示した。
 本報告では、旧開智学校の建築史の評価、および教育史的な特色を概観した後、海後宗臣・佐藤秀夫を中心に行われた旧開智学校所蔵資料の調査・研究の到達点を確認するとともに、今回の再検討により明らかになった、旧開智学校所蔵資料の調査・研究に関する残された課題と今後の方向性について、図書資料(教科書・教育書)、物具資料を中心に検討してみたいと思っている。
〔小野雅章氏 記〕

2019年7月27日(土) 第633回例会:奈須恵子氏【プログラム・ノート】

日時:2019月7月27日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:近代日本における「東洋史」研究・教育の始まりと市村瓉次郎
奈須恵子 氏(立教大学)

【プログラム・ノート】
 近代日本における「東洋史」研究・教育の始まりについて、最も大きな画期として指摘されるのは、那珂通世(1851~1908)による中等歴史教育への「東洋史」導入の提唱(1894年)という出来事である。中等教育のための科目として提唱された「東洋史」が、実際に1900年代には中等教育段階の歴史教育の中で制度化されていくのと並行して、1890年、学習院高等学科のカリキュラムにおかれた「東洋諸国歴史」という科目の担当者となった白鳥庫吉(1865~1942)によって、従来の「支那史」では扱ってこなかった「東洋諸国」の歴史研究が始められ、それは、やがて東京帝国大学における「東洋史」研究の展開につながったということも、「東洋史」の歴史を語るうえでは不可欠となっている。
 それでは、学習院高等科のカリキュラムに「東洋諸国歴史」が置かれ、それを白鳥庫吉が担当することになったのは、どのような経緯によるのであろうか。報告者は以前より、学習院高等学科「東洋諸国歴史」創設のキーパーソンは市村瓉次郎(いちむら・さんじろう 1864~1947)であることを指摘してきたが(拙稿「学習院高等学科における『東洋諸国歴史』の導入」立教大学学校・社会教育講座教職課程『教職研究』第20号、2010年4月)、本報告では1880年代後半の東洋学会での市村瓉次郎の活動に示されていた「東洋ノ歴史」研究進展の構想や、そこに見られる市村の「東洋史」観を中心に検討していきたい。1880年代後半には既に、市村は自らの身に付けた学問的方法論の限定性を自覚しつつ、「西洋ノ技法」のトレーニングを受けた研究者による、中国や中国と関係するアジア諸地域の歴史研究をおこして、研究全体の活性化・進展をはかることについても構想していた。このような構想を具体化できる人物として市村の目の前に登場してきたのが、帝国大学文科大学史学科卒業生でルドウィヒ・リースに実証史学の手法を学んだ白鳥庫吉であった。本報告では、市村と白鳥の学習歴の相違などにも触れつつ、市村が「東洋諸国歴史」を自分では担当せず、白鳥に担当させた背景・企図を解明していく。
〔奈須恵子氏 記〕

2019年6月22日(土) 第632回例会:佐藤広美氏【プログラム・ノート】

日時:2019月6月22日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:植民地支配と教育学
佐藤広美 氏(東京家政学院大学)

【プログラム・ノート】
 大東亜共栄圏(1940~45年)、なぜ、教育学者の多くは先を争うかのようにして植民地支配を肯定し讃美する論説を主張するようになったのか。この事実は、いったい、どのように解釈されるべき事象なのだろうか。あるいは、そこにいたる原因はいったい何だったのか。私は、長い間、その点が気になってきた。本報告は、この点に関する私の考え(『植民地支配と教育学』2018年)を述べる機会にさせていただきたい。
 私は、『総力戦体制と教育科学』(1997年)を出している。これは、戦時下における教育学者の「抵抗と転向」をめぐる思想史研究であった。1930年代のはじめ政府の教育政策の批判者として立ち現れた教育学者が、なぜ、1940年頃を転機に、国策(侵略戦争)に協力する意思=転向を表明してしまったのか、その思想的根拠を解くことがねらいであった。そして、なぜ、戦後教育学は成立してきたのか、その原因を考えてみようとした。
 『植民地支配と教育学』は、前著の問題関心を大東亜共栄圏期における植民地教育論全体に押し広げて検討したものである。私は、そこで、戦時下教育学は「総力戦教育論」に収斂し、それは、日本精神主義教育論・戦時教育改革論・大東亜教育論(植民地教育論)のトライアングル構造によって出来上がっていたとした。
 大東亜教育論(植民地教育論)の諸相、思想的特徴を述べてみる。また、植民地教育を批判した矢内原忠雄の同化主義教育批判を取り上げ、教育学者との違いを明らかにしたい。最後に、戦後(70数年)における「植民地支配と教育学」に関する検討(不十分性)について言及してみたい。
〔佐藤広美氏 記〕

2019年5月25日(土) 第631回例会:大戸安弘氏【プログラム・ノート】

日時:2019月3月23日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 地下1階 第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:19世紀後期における手習師匠と社会変動
大戸安弘 氏(放送大学)

【プログラム・ノート】
 19世紀後期の幕末期に入ると幕藩体制の軋みと動揺とが誰の目にも明らかとなり、各地で発生した社会変動への動きは急速に勢いを増していった。このような時代状況のなかで、民衆の学びの場として機能した手習塾における教育活動の果たした役割にと意味について、二、三の事例を示しながら検討を進めることにしたい。
 近世社会において量的に膨大に展開したといえる手習塾(寺子屋)の存在と、近世を通して無数といってもいい程に頻発した百姓一揆や村方騒動などの社会変動との関係については、これまでの研究において十分な掘り下げがなされてきたとはいえない。その理由としては両者の関係を明らかにする史料調査の難しさもあるが、草創期の近世教育史研究を開拓してきた研究者の一人である乙竹岩造によって、民衆を統制するという意味での教化機関としての手習塾像が形成されてきたという経緯があったことが考えられる。手習塾の普及している地域には、百姓一揆のような暴発は起きることがなかったのだというような捉え方である。このような視点は、その後も根強く引き継がれていくのであるが、1970年代に入ると、こうした定説ともされてきた捉え方に対して、石島庸男による批判がなされ、手習塾・寺子屋に対する新たな視点が提示された。それは、手習塾・寺子屋は身分的秩序を維持するという意味での教化機関ではなく、その自生的特質から、幕藩体制を内部から突き崩す機能を可能性として含み持っているはずであるというものであった。
 このような視点からの具体的な事例として、川村肇によって明らかにされた、信州伊那の南山三十六ヵ村一揆を総代として率いた手習師匠小木曽猪兵衛の存在がある。この他に、房総の九十九里地方で発生した世直し一揆ともいうべき真忠組事件を率いた手習師匠楠音次郎の活動、また、南部藩三閉伊一揆を総代として率いた安家村俊作の活動などを視野に入れながら、上述の課題に迫ることとしたい。
〔大戸安弘氏 記〕