日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

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記録

 日本教育史学会の各種記録類を掲載します。2011(平成23)年度2012(平成24)年度を掲載しています。

2012(平成24)年度

(高野俊「日本教育史学会月例会報告」日本教育学会『教育学研究』第80巻第2号、2013年6月刊行予定より転載)

日本教育史学会 月例会報告
例会開催日:毎月第4土曜日(15時~17時)
会   場:謙堂文庫
 日本教育史学会は1930年代中葉に源流を持ち、この国で創設された教育学関連学会のなかでも最も長い歴史を有する。年次大会開催の方式はとらず、1941年以来原則として8月を除く各月に毎年11回の月例会を開いている。今年度は4月の第567回例会から、3月の第577回まで、謙堂文庫を会場として11件の研究発表が行われた。発表に1時間、質疑応答に1時間の計2時間にわたって毎回密度の高い研究交流がなされている。
 例年、年度初めの4月例会では、高い水準を保ちつつ持続的な研究に取り組んでいる研究者を対象とする「石川謙賞」の授与を行っている。昨年度第25回の受賞者は、『近代日本地方教育行政制度の形成過程―教育制度と地方制度の構造的連関―』を公刊された河田敦子氏(愛国学園大学)である。これまでの39名に及ぶ受賞者は、例外もあるが概ねその後も第一線で活躍している場合が多い。
 今年度の例会での発表者とテーマは、以下の通りである。
第567回 2012年4月28日
 2012年度「石川謙賞」の授賞式
 授賞式後、河田敦子氏にこれまでの研究の経緯や抱負を伺いながら懇談を行った。
第568回 2012年5月26日
 「戦後教員養成改革における一般教養の位置づけ」
 山崎奈々絵氏(東海大学)
第569回 2012年6月23日
 「敗戦後の知識人の教育への関与にみる社会的主体の形成という課題」
 山嵜雅子氏(立教大学(非))
第570回 2012年7月28日
 「戦後カリキュラム改革と自治活動―1950年代茨城県水海道小の実践」
 越川求氏(東洋大学(非))
第571回 2012年9月29日
 「近代日本における青年の『学び』と教育情報―雑誌メディアとその言説の分析―」 
 菅原亮芳氏(高崎商科大学)
第572回 2012年10月27日
 「甲府市小学校女教員会における「有夫女教員問題」」
 齋藤慶子氏(川村学園女子大学)
第573回 2012年11月24日
 「中世における南都法華会」
 高山有紀氏(新島学園短期大学)
第574回 2012年12月22日
 「近代における国学的教育機関の神職養成と教員養成―皇典講究所・國學院を中心に―」
 藤田大誠氏(國學院大學)
第575回 2013年1月26日
 「駒場農学校化学教師キンチとケルネル関係史料から見た高等農学教育の実際とその史的意義」
 熊澤恵里子氏(東京農業大学)
第576回 2013年2月23日
 「近代日本キリスト教系保姆養成機関における保姆養成の実態と特質」
 田中優美氏(東京学芸大学連合大学院)
第577回 2013年3月23日
 「学制布告書の再検討」
 湯川嘉津美氏(上智大学)
 2012年12月に、1946年以来諸事情により休刊となっていた『日本教育史学会紀要』第3巻を復刊した。論文4編の他に、資料として1941年から77年までの例会での発表者と主題が紹介されているなど、多面的な構成となっている。購読希望者は、以下の事務局までお問い合わせいただきたい。
〒272-8533
市川市国府台2-3-1
和洋女子大学人文学群教育学高野研究室気付
日本教育史学会事務局takano@wayo.ac.jp
           (文責: 高野 俊)

2011(平成23)年度

(『日本教育史学会紀要』第3巻掲載より転載)

2011年度  例会一覧

第556回
 2011年4月23日  謙堂文庫
 ~2011年度「石川謙賞」の授与~
 2011年度における第24回「石川謙賞」は下記の方へ授賞することが決定いたしました。
      照屋信治氏
 授賞式後、照屋氏にこれまでのご研究の経験や、これからの抱負を伺い、これを中心に懇談を重ねながら、広く将来にわたる日本教育史研究の課題や研究方法などについて、お話し合いをしたいと存じます。
【授賞理由及び選考経過】
 日本教育史学会理事会は、石川謙賞の選考を行った結果、照屋信治(てるや・しんじ)氏を第24回受賞者とした。選考にあたっては石川謙日本教育史研究奨励賞候補者選考基準に基づいて、全理事を選考委員とする委員会により、1月22日、2月13日、2月26日、3月26日に、選考基準による候補者のリストアップや候補者の審査を実施し、全員の総意をもって今回の選考結果に至った。なお、「石川謙日本教育史研究奨励賞」は、従来から略称として普及した「石川謙賞」をもって正式名称とすることとなった。
 受賞者・照屋信治氏は、早稲田大学卒業後、沖縄県の高等学校教諭となり、現職のまま兵庫教育大学大学院修士課程で研究をおこない、2005(平成17)年には京都大学大学院修士課程、さらに博士課程に進学して、2011(平成23)年3月には博士号を授与された。四月からは沖縄キリスト教学院大学の准教授に就任した。
 この数年間に発表された照屋氏の研究テーマは、沖縄県教育会機関誌の『琉球教育』(1895-1906)及び『沖縄教育』(1906-1944)を主たる史料として、「沖縄」をめぐる教育と意識の変容の複雑さを描き出すことにある。このモチーフは、兵庫教育大学大学院在学、沖縄県立南風原高等学校教諭の頃から一貫しており、論文「『琉球教育』(1895-1906)の史料的位置づけ―皇民化概念のとらえ直しをふまえて―」 日本法政学会『法政論叢』第40巻第1号 2003年11月)では、「社会学的同化概念」を近代沖縄史研究に導入することの問題提起を行い、藤井徳行・照屋信治共著論文「生徒の政治参加意識を高める公民教育の研究―沖縄人にとっての日本史の授業の創造―」兵庫教育大学学校教育研究センター編『学校教育学研究』第16号(2004年3月)では、沖縄の高等学校での授業案を実践的に提案している。
 ついで京都大学大学院に進んで駒込武氏らの指導を受けて教育史学を専攻して、史料の読解と登場する教育家の思想史について精緻な研究が積み重ねられた。論文「『琉球教育』(1895-1906)にみる沖縄教育の原型―新田義尊の沖縄教育論とそれへの対応―」『歴史評論』第683号(2007年3号)では、広島出身の新田義尊の教育論と沖縄人からの抵抗を描き、論文「『琉球教育』(1895-1906)にみる沖縄教育の展開―「学術」「教授と訓練」欄の傾向を中心に―」『日本の教育史学』第四九集(2006年10月)では、歴史や言語の教授法において沖縄人が日琉同祖論や沖縄の言葉の抑圧に主体的に抵抗しえたことを描いた。さらに論文「沖縄教育における「文明化」と「大和化」―太田朝敷の「新沖縄」構想を手がかりとしてとして―」『教育学研究』第七六巻第1号(2009年3月)では、新聞人太田朝敷(ちょうふう1865-1938)が単純な大和化ではなく新沖縄に内地以上の文明化を求めたことを描いた。論文「「県文化運動の機関」としての『沖縄教育』―1923年から1933年までの誌面分析―」『京都大学大学院教育学研究科紀要』第56号(2010年三月)では、沖縄学の発展や大正期の様々な思想の流入の展開を論じ、論文「『沖縄教育』にみる「沖縄人」意識の形成―1910年代の親泊朝擢の言論に着目して―」『歴史学研究』第876号(2011年2月)では、『沖縄教育』編集発行人となった親泊朝擢(おやどまりちょうたく1875-1966)が近代教育の啓蒙に格闘した様子を描いている。
 照屋氏の一連の研究は、先行研究によって掘り起こされた雑誌『琉球教育』や『沖縄教育』を丁寧に読み込み、沖縄の教育関係者が、日本との対立軸だけではなく、沖縄内部の階層と地域性、西洋とアジアとの関係性において、多様な論理をとって近代教育に向かいあう実相を明らかにしたものである。地上戦による行政文書喪失をはじめとした史料的制約の中で、雑誌記事の言説への史料読解の緻密さを高めることで、教育思想史の解明を追究する姿勢が鮮明である。
 こうした研究のさらなる深化と広がりを期待して、照屋信治氏を石川謙賞の第24回受賞者とするものである。
         〔高橋陽一氏 武蔵野美術大学教授・本学会理事 記〕

第557回
 2011年5月28日  謙堂文庫
 明治国家と地域教育~府県管理中学校の研究~  荒井明夫
 筆者は、先に吉川弘文館から『明治国家と地域教育―府県管理中学校の研究―』を上梓した。本書は、筆者のこれまでの府県管理中学校研究のまとめである。序章で本研究の課題・対象・視点・方法・活用した史料について論じ、第1部で維新以降明治国家形成に至る中学校設置政策および教育行財政政策史を整理し、府県管理中学校の歴史的意義・役割・類型化を考察した。第2部は事例研究である。旧士族・藩主の拠金に学校を存続維持した福岡県豊津尋常中学校と山形県米沢尋常中学校、中学校の存続維持母体として教育義会を組織した愛媛県伊予尋常中学校と広島県尋常中学校福山誠之館、民衆の寄付金を資本金とした群馬県尋常中学校と福島県会津尋常中学校、山形県庄内尋常中学校の、計7校の事例を分析した。第三部は府県管理中学校全体を対象として地域の教育要求と中学校管理の相剋を考察し、それを通じて中学校設立をめぐる地域的公共性が国家的公共性へと統合・収斂されるプロセスを解明した。補論として、真宗大谷派経営の京都府尋常中学校の事例を考察した。
 本発表では、本書の内容を紹介しながら、府県管理中学校という不思議な性格をもつ中学校が一体なぜこの時期に登場したのか、この学校群を手がかりとして森文政の本質にいかに迫れるか、検討したい。また日本教育史研究における史料論・課題論にも迫りたい。
                  〔荒井明夫氏 記〕

第558回
 2011年6月25日  謙堂文庫
 近代日本地方教育行政制度の形成過程をめぐって  河田敦子
 発表者は、2008年3月にお茶の水女子大学より博士の学位を授与された『近代日本地方教育行政制度の形成過程―教育制度と地方制度の構造的連関―』を加筆修正し、独立行政法人学術振興会より2010年度科学研究費補助金の交付を受け、2011年1月に風間書房より同名の著書を刊行した。本著は、1880年代に教育制度と地方制度の度重なる改正によって形成された地方教育行政制度における権力構造を、制度内容・制度形成過程・町村における実態の三つの観点から分析検討したものである。本研究は、1890年以前には、住民のみならず制度制作者内部においても小学校教育に対する強い自治的要求が学務委員や戸長といった町村学事担当者を中心にして存在したことを明らかにした。しかし、学務委員は廃止、その後復活しても職務権限は縮小され、1890年前後に市制町村制と第二次小学校令では、教育に関する事務は国家の事務として機関委任事務と団体委任事務に配分された。こうした一連の制度改正により、住民の自治要求を抑止しながら中央集権的な権力を強化する地方教育行政における片側跛行的な権力構造が形成されたと結論した。本研究は、このような権力構造を形成したのが内務大臣山県有朋であったことを解明している。今回の発表では、博士論文への加筆した部分と今後の研究の展望も含めて発表する。尚、今後の研究は2011から13年にかけて取得した科学研究費補助金をもとに進めていく予定である。
            〔河田敦子氏 記〕                                                  
第559回
 2011年7月23日  謙堂文庫
戦後夜間中学校の研究―川崎市における夜間中学校設立運動に着目して―
大多和雅絵
 戦後の夜間中学校の成り立ちに目を向けると、大きくは、二つの文脈がある。ひとつは、新制中学校の始まりの際に生じた不就学・長期欠席という事態に対応するために開設されたことに端を発する学校である。もうひとつは、1960年代後半に展開された夜間中学校の増設・設立運動に端を発する学校である。前者は1947年に新制中学校が発足となったが、地域によっては経済的な事情等により昼間就労を余儀なくされ、不就学者・長期欠席者となる学齢者が多数存在した地域において、主として現場の教員たちの熱意により、自然発生的に始められ、その後、教育 委員会が認可をするに至った。その多くは、入学する生徒も学齢者から学齢超過者、在日韓国・朝鮮人、引揚・帰国者、不登校経験者、ニューカマーなど、時代状況を反映して、入学する生徒が変容してきたことが跡付けられている。一方で、後者は1960年代以降に現れた新たな現象として捉えることができる。夜間中学校が設置されていない地域において、夜間中学校を必要とする一定数の対象者が存在し、公立の夜間中学校の設立という明確な目的のもとに増設・設立運動が展開され、行政に働きかけることで夜間中学校が設置されるに至った。
 本発表では、1960年代後半に展開された夜間中学校の増設・設立運動により設立に至った夜間中学校に着目し、その運動はどのような意図のもとで、どのように展開され、夜間中学校の設立に至ったのかを明らかにしていきたい。本発表では、特に1982年に川崎市立西中原中学校に設立された夜間中学校をめぐる動向に注目する。その際、その設立運動を担った「川崎に夜間中学を作る会」(1973年発足)の動きに着目する。
           〔大多和雅絵氏 記〕

第560回
 2011年9月24日  謙堂文庫
熊野信仰をめぐる神秘性・霊性のイメージとその要素・条件―雑誌『旅』によるツーリズム形成を中心に―  小澤啓
 発表者は現在、武蔵野美術大学大学院博士後期課程作品制作研究領域に在籍し、「神秘性・霊性を感じられる場の風景」というテーマのもとに絵画制作を行っている。また、このテーマに関連して、熊野における神秘性・霊性のイメージの変遷についての研究、および、神秘性・霊性のイメージの形成に深く関係すると考えられる要素・条件についての研究を行い、これらの研究をモチーフ研究として位置づけている。
 発表者は、熊野における神秘性・霊性のイメージが中世から現代にいたるまでどのように変化してきたのかという問題と、どのような要素・条件のもとで人々は神秘性・霊性のイメージを抱くのかという問題について、旅行ガイドブックや文学作品を対象に検討してきた。中世から近代までのイメージの変遷に関する研究では、「俊寛」にまつわる文学作品群を対象とし、近代の状況を検討した際は、旅行雑誌『旅』を資料に用いた。また、現代の状況については、1945年以降に出版された旅行に関する書籍を主な資料とした。
 本発表では、1924年4月に日本旅行文化協会より発刊され、1943年8月号をもって休刊を迎えた旅行雑誌『旅』を対象とした研究内容を中心に発表したい。『旅』は大正・戦前昭和期の日本を代表する旅行ジャーナリズムであり、日本のツーリズムを主導した現在の日本交通公社につながる組織の機関誌である。近代日本のツーリズム形成期における熊野の神秘性・霊性のイメージの特徴や、このイメージ形成に関わっていると考えられる要素・条件の特徴について触れ、これまでの研究内容と併せて考察したい。
             〔小澤啓氏 記〕

第561回
 2011年10月29日  謙堂文庫
 秋田大学附属図書館所蔵「教育課程文庫」の調査報告  冨士原紀絵
 本報告では秋田大学附属図書館に保存されている「教育課程文庫」(Textbooks & Curriculum Library)の設置と運営の状況、現在所蔵されている文献の全体的な状況を紹介することを目的としている。
「教育課程文庫」とは戦後日本の「特に、教育課程の改善と教科書の地方的編集を助ける」目的で全国20カ所に設置された、主としてアメリカと日本の初・中等学校教科書と教育専門書が集積されたものである。設置の経緯は既に複数の先行研究で紹介されているが、香川大学を除き、個別の大学・研究機関の「教育課程文庫」の運営や保管されている資料についての分析はなされていない。日本に設置された「教育課程文庫」の体系的な整理や研究は今後の課題になるが、今回はその一貫として、秋田大学の調査結果を報告する。
             〔冨士原紀絵氏 記〕

第562回
 2011年11月26日  謙堂文庫
関西学院学院史編纂室所蔵「文部省関係文書」における思想統制・学術政策に関する資料の調査報告   奈須恵子
 本報告では、関西学院学院史編纂室所蔵の「文部省関係文書」(1931~1952)のうち、とりわけ1931年4月から1945年12月までの、思想統制・学術政策に関係 する文部省文書(通牒等)の全般的状況の紹介を行う。これを通して、対象時期における、文部省から高等教育機関に対する思想統制、教員や学生生徒への監視 ・管理、さらには学問統制・動員に関わる指示の状況(の一端)について概観したい。
 報告者は、日本諸学振興委員会に関する共同研究に参加し、その過程で関西学院学院史編纂室所蔵の「文部省関係文書」の調査を行ってきた。文部省の通牒、照会の発信状況については、発信側である文部省側からアプローチすることは困難であり、受信側である各機関に残された資料を集めて発信状況の“復元”作業
によって明らかにすることが必要となる。関西学院に残された資料は、そうした作業を進めるにあたって、一つの、しかし、かなり重要な手がかりを与えてくれるものだと考えられる。他の高等教育機関に残された資料調査の継続とそれらを通して行う“復元“作業は今後の課題であるが、今回は、まずは関西学院学院史編纂室所蔵の「文部省関係文書」から見えてくる、思想統制・学術政策の展開と変化の過程について報告したい。
             〔奈須恵子氏 記〕                           

第563回
 2011年12月24日  謙堂文庫
1930年代の小学校訓育における『敬神崇祖』観念の導入―教育界と神職会の動向に着目して― 高瀬幸恵
 本発表では、1930年代の小学校訓育における「敬神崇祖」観念の導入の過程を、地域の教育行政および教育会と神職会の動向に着目して検証することをねらいとする。発表者は、「1930年代における小学校訓育と神社参拝―美濃ミッション事件を事例として―」(『日本の教育史学』第50集、2007年)において、岐阜県では、学務部長が教育会および神徳会(岐阜県の神職団体の名称)の会長を兼務し、学校教育と神道会との連携が強化され、小学校訓育における神道の導入が進められたことを明らかにした。この成果に基づきながら、全国的な教育界および神職界の動向をふまえつつ、他県(鳥取県・神奈川県)の事例を取り上げることで、当該時期における小学校訓育の再編成の全体像を考察したい。
            〔高瀬幸恵氏 記〕

第564回
 2012年1月28日  謙堂文庫
 昭和天皇即位の「御大典」を契機とする国旗制式定型化の動向とその挫折
 小野雅章 
 周知の通り、戦前日本では、日章旗に二つの制式が存在し、その正統性をめぐる論争があった。その論争が本格化するのは、1924年9月10日付内務大臣官房会計課長発県知事宛通牒「国旗掲揚ノ件ニ付通牒」により、国家祝祭日や皇室の祝典において官庁で国旗掲揚を推奨して以後のことである。
 二つの制式について、政府は1930年12月15日付、内閣書記官長発文部次官宛通牒「国旗ニ関スル件」により、明治3年正月27日、太政官布告第57号(商船規則)による制式との見解を示すが、この通牒が国旗制式の混乱に拍車をかけることになり、1931年の第59回帝国議会で国旗に関する議論がにわかに起こる結果となり、その後も、この二つの制式に関する論争は燻り続けた。
 本発表に関しては、既に籠谷次郎、佐藤秀夫、森川紀輝らにより明らかにされている部分もあるが、本発表では、これらの先行研究の成果をもとにしながらも、従来指摘されることのなかった、1928年の昭和天皇即位の「御大典」を契機とする、国旗制式の制定の動きとその後の動向を中心にして、公文書資料や新聞記事等をもとに論じたい。
              〔小野雅章氏 記〕

第565回
 2012年2月25日  謙堂文庫
青年教育における教練の問題  神代健彦
 ここでいう青年教育とは、勤労青少年男子のための定時制教育機関として創設された青年訓練所(1926-35)、およびその後身の青年学校(1935-47)を中心とした制度・機関において営まれた教育を指す。この青年教育は、古くは陸軍の総力戦体制構築の一環として、勤労青少年を統制下におこうとする国民統合装置として位置付けられてきた一方で、いくつかの研究においては、たとえ軍国主義的側面が拭えないにせよ、それまで公教育の対象外におかれてきた勤労青少年に対して、教育の機会を不十分ながらも提供したものである、という両義的な評価が為されてきた。
 報告者は、これらの成果に対し基本的に同意しつつも、それらを踏まえたより総合的な視角から、これを分析することを念頭に研究を行ってきた。陸軍の出先機関か、廉価版の学校制度かという二者択一の視座は、どちらにせよ既知の事柄(軍隊、学校)からの偏差によって対象を叙述しようし、その限りにおいてしか対象を捉えきれないという欠点を持つ。しかし報告者は、これを独自の人間形成、その目的・内容・方法の探求の歴史、軍隊と学校のどちらにも還元できない固有の営みとして描き出すことを試みてきた。
 以上の点を念頭に、報告では主として以下の2点を中心に論じる。① 青年教育の概説:先行研究のレビューも含めた対象の素描。② 教練をめぐる問題:軍隊における教練を移植したものでありながら、軍隊とは違う固有の目的や内容をもった人間形成であることを規範的に要請されていた、また、それ自体が既存の学校教育に対する革新の装いを持って作られた青年教育における教練の検討。
 これらを通じて、青年教育の歴史を、そしてまたそれと同時に、青年教育を論じる際の方法についての試論を提起したい。
            〔神代健彦氏 記〕

第566回
 2012年3月24日  謙堂文庫
『濱庇小児教種』『船方往来』成立をめぐる諸状況―一九世紀中葉九十九里地方の教育状に関する若干の考察― 大戸安弘
 今回の発表では、『濱庇小児教種』(はまべしょうにおしえだね)と『船方往来』(ふなかたおうらい)との2種類の往来物に注目し、それらの構成内容と成立をめぐる諸状況とを検討しながら、19世紀中葉の上総国九十九里地方の教育状況の一側面を考察することにしたい。
 あらためて指摘するまでもなくよく知られているところであるが、夥しいといっても過言ではないほどに多種多様な往来物が成立し刊行された。近世社会を支えた人々の日常生活のあらゆる側面に即して誕生したことが一般的であると考えられる往来物であれば、近世教育史家によって残存するものとして約7、000種類と推量される結果は、驚くにあたらない至極当然のことといえるだろう。
 19世紀中葉に成立した上記の2種の往来物も、そうした膨大な数量の往来物群の一翼を担っているのであるが、これらの往来物は、近世の往来物群のなかでも独特な位置を占めていることもたしかである。それは、いずれも上総国九十九里地方において漁業を生業としていた人々を対象にして成立していたという点から発している。近世の産業に占める漁業の位置からみれば、漁業の世界に生きる人々の存在を前提にした往来物が成立していても不思議ではないはずである。ところがそうした特性を有した往来物としては、残存している限りではこれらの2種類に限られるようである。
 『濱庇小児教種』と『船方往来』は漁民を対象にした希少な往来物といえそうである。またそのことは、漁民に識字力がさほど求められなかったという結論にも結び付きそうであるが、はたしてそうであるのか 否か、19世紀中葉の九十九里地方の教育状況を視野に収めつつ、一二の考察を試みることにしたい。
                 〔大戸安弘氏 記〕



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