日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

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人間社会学部現代社会学科上田誠二研究室気付
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沿革

沿革

1930年代なかば
 在京の日本教育史研究者が「日本教育史懇談会」として集まる。
1941(昭和16)年
 1月25日、石川謙、海後宗臣、加藤仁平らが東京女子高等師範学校で発会式を行う(これより毎月の例会の開始)。
1943(昭和18)年
 2月、「日本教育史懇談会」の名称を「日本教育史学会」に改める。
1945(昭和20)年
 2月15日、『日本教育史学会紀要』第1巻刊行(表紙は「昭和十九年」とあり)。
1946(昭和21)年
 10月15日、『日本教育史学会紀要』第2巻刊行(表紙は「昭和二十年」とあり)。
1948(昭和23)年
 9月18日、慶應義塾幼稚舎で戦後の第1回例会(報告者は中山一義と結城陸郎)。
*従来「1956(昭和31)年9月29日、東京教育大学で戦後の第1回例会(報告者は唐沢富太郎と石川松太郎)。」としておりましたが、その後『日本教育史学会紀要』第10巻掲載の大戸安弘解説資料により8年遡ることができましたので訂正します。
1988(昭和63)年
 4月、第1回石川謙賞を授与(受賞者は大戸安弘と鈴木理恵、毎年実施)。
2012(平成24)年
 12月20日、『日本教育史学会紀要』第3巻刊行。

『日本教育史学会紀要』復刊の辞

(大戸安弘、『日本教育史学会紀要』第3巻、2012年12月、1-4頁より)

   『日本教育史学会紀要』復刊の辞

 およそ六六年の時を経て、日本教育史学会紀要が復刊されることとなった。これほどの長きにわたる休刊がなぜ続いたのか、今となってはその疑問に十分な答えを導き出すことは困難であるが、本学会の足跡を辿ることから、その背景について多少の理解が生じるのかもしれない。
 この国で創設された教育学関連学会のなかでも最も長い歴史を有するのが日本教育史学会であるが、その源流は一九三〇年代中葉にまで遡ることができる。東京在住の研究者有志が集い、一研究者としての自由な立場から相互の切磋琢磨を期して発会へと至った。このことにより、小規模ではあったが内輪の組織にありがちな微温的体質からの脱却を目指した、教育学領域での初の本格的な学会が立ち上げられた。そこには、学会の創設に中心的な役割を果たした石川謙のそれまでの研究者としての歩みが投射されている。
 第三八回例会が開催された一九四四年五月二〇日に紀要編纂委員を代表して筆を執った石川が、「日本教育史学会発刊の辞」においてその創設の経緯について触れている。日本教育史学会の前身は、日本教育史懇談会としてそれより遡ること一〇年程以前に「同学の士数名」によって発足し、月例研究会を始めたものの研究者の層が薄かったためか、数年後には一時活動停止の状態に陥ったようである。
 しかし一九四一年一月に、当初からの会員であった石川と海後宗臣、加藤仁平などによりなされた活動再開への取り組みの結果、再興第一回の懇談会が開催された。以後、八月を除き現在と同様に年間一一回の月例研究会を開催し、七〇余名の会員を擁して着実な活動が進められた。東京および横浜の教育研究機関に在籍している研究者という制約はあったが、当時の日本教育史研究の水準をほぼ表している活発な活動が展開されたといえる。やがて、こうした状況のなかで蓄積されていく研究成果を掲載した研究紀要発刊の計画がまとまり、紀要編纂委員会の組織化と同時に、日本教育史懇談会は日本教育史学会へと改称された。一九四三年二月のことであった。
 総力戦体制のさなか、アジア太平洋戦争における敗色が誰の目にも明らかになりつつあり、都市部への空襲が激化しつつあった一九四五年二月という時期に、本学会紀要第一巻は刊行された。「漢字漢文教育史」が特輯され、吉田熊次、海後宗臣、松月秀雄、石川謙による共同研究の成果が掲載されている。第二巻の刊行は翌四六年一〇月であり、巻頭論文は高橋俊乗「芸道と錬成」であった。敗戦を挟んだ戦前と戦後の直近という、真当な学術研究が困難極みに達していた時期に刊行されたことになる。
 しかしその後の本学会の歩みは平坦なものではなかった。第二巻に掲載された論文の多くの根幹の部分は、概ねすでに戦時下においてなされていたものと考えられる。時代の制約の下で、日本の教育伝統の探究を研究課題とする傾向が強まり、その結果として日本教育史、とりわけ前近代の研究が隆盛であったことは否めない。第二巻の掲載論文六編がすべて前近代教育史研究であったことにも、そのことが瞭然としている。戦後はそうした状況が反転した。しばらく前まで、日本教育史研究を専門分野としていたと思われる研究者の日本教育史離れが加速していったからである。日本の教育伝統の探究という課題から、アメリカなどの最新の教育情報の紹介に転じていくというように。いつの時代にも見られることであるが、時代の変化に敏感に対応し、研究課題を大きく変えていく教育学者が続出した。毎月の例会への参加者も戦前は三〇名前後を数えていたが、戦後は十分の一程度へと激減し、会の存続も覚束ない状況があったようである。その一方で、右顧左眄することなく日本教育史研究に打ち込むことに自身の道を見出していた研究者も少なからずあった。そうした研究者によって、日本教育史研究を取り巻く冬の時代に本学会は支えられ、灯をともし続けることができたのである。
 一九五六年五月に日本・西洋・東洋の三領域からなる教育史学会が発足したが、三〇年代から戦後へと活動を継続してきた本学会の学問的蓄積がその礎石となったことは間違いのないことであろう。石川謙は教育史学会初代の代表理事に就任し、六八年まで一二年間その任にあった。五八年には紀要第一集が創刊されている。
 敗戦直後の日本教育史研究をめぐる環境の大きな変化、そうしてその後の五〇年代の教育史学会の発足と同学会紀要の刊行などが、本学会の紀要復刊がなかなか実現しなかったことの要因として考えられよう。教育史学会が会員数一〇〇名余から出発したことに明らかなように、現在と異なり研究者の層が決して厚くなかった当時、西洋・東洋領域の研究者も参加した教育史学会の紀要刊行によって、教育史研究の研究水準の明示は、教育史学会紀要によるもので当面十分と考えられたのではないだろうか。あるいは、石川謙の教育史学会代表理事としての立場上の制約があったのかもしれない。
 こうして日本教育史学会の紀要は、戦前からの歴史を有する学会であるにもかかわらず、なかなか復刊の機を見出すことが叶わなかった。復刊の提案が浮上することはあったようだが、結局は見送られたのである。その後、大学院学生会員の急増ということもあり、日本教育史研究に取り組む研究者の層は厚みを増していった。そうした状況の反映といえるのであろうが、日本教育史関連の新たな学会・研究会が相次いで創設され、そのことに伴い新たな研究紀要が刊行され、それぞれ着実な歩みを見せていったことは周知の通りである。
 このようにすでに日本教育史研究に関する複数の研究紀要が存在するのであるが、そうしたなかで、『日本教育史学会紀要』が、長過ぎた休刊期間を経て復刊することの意義はどこにあるのだろうか。一定の水準を保った研究紀要が相互に刺激しあいながら並立する状況は、その研究領域の水準を底上げする可能性が高いことは否定できないことであろう。そうした意味では、本学会紀要の復刊はそのことだけで意味のあることといえよう。
 その上でさらにあるべきこととして強調しておきたいことは、本学会紀要としての特性を闡明にするということである。年次大会やセミナーを開催する学会や研究会と比して、一九三〇年代の発足当初より月例研究会を重ねていることが、本学会の大きく異なる点である。今月で第五七三回を数えるに至っているが、毎回の発表者の顔ぶれは実に多様である。他機関の活動が若手の登竜門としての意味合いが比較的強くなっているのに対して、若手研究者のみならず研究歴の長い研究者の発表も目に付くことも指摘できよう。本学会は創設当初から特定の立場や経歴に拘ることなく、あらゆる人々に対して門戸を開いてきた。その人の提示する学問的成果について注視し、他の属性についてはあまり関心を払うことなく歩んできたといえる。学問的探究の前に無用な制約はないはずであるから、学問的成果の公表についても若手に傾斜することなく、今後もあらゆる年代の会員からの研究成果が公表される場としてありたいと思量する。
 本学会創設時からの方針を引き継ぎ、敗戦後の研究環境に恵まれない時代にもそうした立場を堅持し、現在に至る月例研究会を絶やすことなく継続してこられた先人への思いを致しつつ、ここに『日本教育史学会紀要』第三巻を復刊する。日本教育史研究の新たな峰々を展望する場として十全な機能を果たすために、学問上の固定的枠組みに縛られることなく多様な課題に取り組み、在来の日本教育史像の再構成に向けて会員諸氏と共に前進したい。

   二〇一二年一一月二四日 第五七三回例会の日に
                
       日本教育史学会会員を代表して
                    大戸 安弘