日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

〒112-8681
東京都文京区目白台2-8-1日本女子大学

人間社会学部現代社会学科上田誠二研究室気付
TEL 03-5981-7531
【半角文字】ahsej@
ahsej.com

例会

日本教育史学会例会の開催

 日本教育史学会の例会は、会報やこのウェブページでお知らせする会場で、8月を除く毎月第4土曜日午後3時に開催されています。一人の報告者が、報告と討議をあわせて合計2時間の持ち時間で行います。通常の学会発表と異なり、充実した時間をつかた研究発表と討議が可能です。
 過去の日本教育史学会の例会記録は、『紀要』掲載の記録や記録のページをご覧ください。

例会の研究発表のご案内

 例会で研究発表を希望する会員は、日本教育史学会事務局にご相談ください。
 例会の研究発表者は、事前に事務局に「発表題目」とそれぞれ800-1000文字程度の「プログラム・ノート」(今回の発表内容の紹介)、800文字以内「発表者のプロフィール」(著書・論文や略歴などの紹介文の原稿)を提出してください。
 提出された発表題目やプログラムノートは、この日本教育史学会ウェブページで公開されます。このページに随時掲載しますので、ご参照ください。会員に送付する会報には発表者のプロフィールも含めた全文を掲載します。
受付 ahsej@ahsej.com【実際の送信はすべて半角英数字にしてください】


会場のご案内(例会開催場所)

 例会会場は、会報やこのウェブページに掲載します。永らく謙堂文庫を石川家のご厚意で使用しておりましたが、現在では立教大学などの大学会議室を借用しております。会場はその都度異なりますので、ご注意ください。
*2021(令和3)年2月からはオンラインでの開催をしております。

例会表示回数の変更
 2016(平成28)年4月より『日本教育史学紀要』第687頁(下記)に掲載のとおり、例会の回数表示を変更いたします。
「二〇一一年度以降の例会回数について、会報の号数と例会の通し回数が一致しない年がある(例会が実質開催されなかった月の存在等による)ことが判明しました。今巻より、例会の通し回数を優先させ、二〇一一年度からの例会回数を以下のように訂正いたします。二〇一一年度(第五四七回~第五五七回)、二〇一二年度(第五五八回~第五六八回)二〇一三年度(第五六九回~第五七九回)。」

活動報告

2018年5月26日(土) 第622回例会:早川雅子氏【プログラム・ノート】

日時:2018月5月26日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 地下 第3会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:幕末・維新期における江戸町方住民家族の実態と孝行の諸形態
早川 雅子 氏(九州大学)

【プログラム・ノート】
 1700年代末、江戸では、流入民の家族形成が本格化した。彼ら都市家族は、夫婦と子供たちから構成される小家族で、子どもを中心に据えた血縁と情緒とを紐帯とし、江戸の地に家族の生活の場を築き上げるため、すなわち江戸定着を目的に自助努力した。その家族中心的傾向と‛考え・働く個人’という意識の萌芽という点に近代との連続性を認め、1700年代末からの約80年間を近代への過渡期と位置づける。
 近代への過渡期、民衆道徳における第一義的徳目は、孝である。発表者は、(1)思想史的観点から、民衆道徳における孝の特質、及び儒学の孝から民衆道徳の孝への展開過程を研究、併せて(2)孝を実践する主体=民衆の実態解明という観点を立て、幕末・維新期の江戸町方人別帳をデータベース化、住民構造や世帯構成を分析してきた。
 (1)孝の研究では、近世日本儒学における孝思想の源流として、太宰春台撰『古文孝経 孔子伝』・中江藤樹の孝恩の思想・貝原益軒の恩の思想の三者を設定し、儒学の孝の展開過程を考究した。その結果、①1700年代後半を画期として、民衆道徳に特徴的な孝道徳が現れ、普及していく。②その特徴は、教養、職業、階層等に応じた具体的かつ日常的な教訓が説かれるようになる点、孝を天性の道と定め、孝行を逼る根拠として生育の恩を設定する点にある。③民衆道徳における孝は、儒学をはじめ、仏教や神道の取捨選択、編成しており、儒学の孝の展開過程としての体系的な跡付けは難しいことを明らかにした。
 (2)民衆の実態に関しては、東京都新宿区四谷地域の三町(四谷塩町一丁目・麹町十二丁目・四谷伝馬町新一丁目)人別帳データベースの分析によって、幕末・維新期の都市家族の実態を解明した。その結果、①標準的家族形態は、夫婦世代一代を基本とする核家族であり、子どもは独立して自分の家族を作る傾向にある。したがって、②親世代と同居して孝養を尽くすという形での孝行は一般的とはいいがた、という都市家族の現実を提示した。
これらの研究成果から、都市家族における孝とは、①人が生涯をかけて学ぶ、②家族(あるいは家)を形成し、家族とともに世間を生き抜くために実践すべき規則や心構えの総体であり、③職業や階層に応じた諸形態があると結論づけた。
 発表では、人別帳データベース分析による幕末・維新期の都市家族の実態を紹介し、実態のなかから孝行の諸形態を開示する。発表を通して、近代への過渡期における民衆の孝道徳に関する視座を提供したい。
 本発表は、日本学術振興会平成29年度科学研究費補助金(基盤研究C:課題番号 17K02262 近代への過渡期の都市住民家族における孝行の諸形態と主体形成)による研究成果の一部である。
〔早川雅子氏 記〕

2018年3月24日(土) 第621回例会:木村政伸氏・辻本雅史氏【プログラム・ノート】

日時:2018月3月24日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 5号館 第1会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:入江宏先生の生涯と業績について
木村政伸 氏(九州大学)
辻本雅史 氏(中部大学)

【プログラム・ノート】
 2017年6月26日に入江宏先生が逝去された。日本教育史学会では長年に渡って世話人として学会運営に主導的な役割を果たしていただくとともに、とくに後学の若手研究者に刺激を与え、研究面での支援を惜しまれることがなかった。優れた研究者の多くがそうであるように、閉鎖性から縁遠いところにあって、次世代の活動を後押しするような存在だったことは、衆目の一致するところであろう。1980年代以降の本学会で世話人といえば、石川松太郎先生、入江宏先生、久木幸男先生などの姿が思い浮かび、例会には心地よい緊張感が生じていたことが思い起こされる。こうした例会の雰囲気は引き継ぎたいものである。
 2009年の石川会長逝去後の本学会の危機的状況を乗り越えることができたのも、入江先生の的確な状況判断に基づく具体策の提示があったればこそ可能であった。バランスのとれた柔軟な発想から問題に対処され、課題をクリアーにするための道筋を提示されたことを受けて、現在の理事会体制もあることから、先生にはこれからも見守っていただきたかったとの思いが強く残る。
 第621回例会では、入江宏先生の生涯を振り返りながら先生が残された主な学問的業績の意味を問い、さらに後学が取り組むべき課題の在りようについて検討することとしたい。
 入江先生は近世教育史分野を中心とする研究活動を展開され、その成果は既存の研究動向にインパクトを与えずにはおかないものが多かった。東京教育大学大学院での修士論文「町人的職業観の成立と教育~元禄・享保期を中心として~」以来、一貫して近世の庶民教育に関するテーマに取り組まれた。その後北海道学芸大学函館校に着任されたが、その前後の初期の主な論考としては、「町人社会における家業意識と教育」(『日本の教育史学』第4集、1961年)、「近世商家における同族結合と家訓の教育的機能」(『北海道学芸大学紀要』第13巻1・2号、1962年)、「近世商家における惣領教育~佐野屋孝兵衛家の記録をとおして~」(『北海道学芸大学紀要』第16巻1号、1965年)などがある。1969年に宇都宮大学に異動し、「越後屋(三井家)における奉公人教育の思想と制度~店式目成立期を中心に~」(『日本の教育史学』第13集、1970年)をまとめた後、1970年代から80年代にかけて栃木県史編さん委員会近世部会に参加された。北島正元、河内八郎、長谷川伸三、深谷克己などの近世史研究者との交流のなかで、新たな研究手法を模索されていた時期といえる。『栃木県史』『日本近代教育百年史』などの編纂を進めるとともに、「近世下野農村における手習塾の成立と展開~筆子名寄帳の分析を中心に~」(『栃木県史研究』第13号、1977年)を執筆し、総体としての寺子屋・手習塾研究から個別研究への道筋を切り開かれた。この他、郷学概念の規定に取り組まれた「郷学論」(幕末維新期学校研究会編『近世日本における「学び」の時間と空間』所収、2010年)なども見逃すことのできない成果である。1995年から2000年まで日本女子大学に所属し、96年には、『近世庶民家訓の研究~「家」の経営と教育~』を上梓している。
 木村政伸氏と辻本雅史氏にご報告していただくが、木村氏には庶民家訓を軸とした60年代までの業績を中心に、辻本氏には70年代以降の業績を中心に論じていただくことにしたい。入江先生は常々、前近代教育史研究の開拓者というべき石川謙や高橋俊乗などの先の世代の業績に学びつつも、それを乗り越えることを意識しなければならないことを強調して止まなかった。先生の研究者としての足跡に、そうして一貫するものを見出しながら、また私たちの世代も先生の業績に真摯に向き合うべきであり、そこから前近代教育史研究の新たな展望を導き出すこととしたい。
〔大戸安弘氏 記〕

2018年2月24日(土) 第620回例会:熊澤恵里子氏【プログラム・ノート】

日時:2018月2月24日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階 会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:越境する科学―獣医学教師マックブライドからヤンソンへ―
熊澤 恵里子 氏(東京農業大学)

【プログラム・ノート】
 日本における学問・産業・文化の近代化は欧米の知識・技術の導入及び受容の成果として常に語られる。なかでも、高等教育の組織体制及び学問研究の形成は、明治初年に招聘された外国人教師に依拠する点が大きい。世界情勢を見据えての緻密な情報収集により、医学はドイツ、法学は仏国、工学は英国、理学は英国・米国など、最善なる学問を目指して国別の取捨選択がなされた。明治十年代後半になると、欧州で強力な軍事力を誇るドイツの国家体制を範に法制度を整え、学問・産業等もドイツへ傾倒した。高等教育において後発の農学教育も、同じ頃英国からドイツへの転換が図られた。高等教育研究においては、高等教育の組織及び各学問分野の形成を国別に分析・検討する。あるいは、外国人教師の出身国や出身大学の教育の影響を示唆するものが多い。しかし、当時の欧州を見た場合、とりわけ自然科学系の学問においては、国別という縦割りに区分し考察することは、ともすれば科学者の本質を無視し、学問研究の横のネットワークの存在を見落とすことにもなりかねない。科学の探求に国境はないのである。
 発表者が近年取り組んでいる農商務省官立学校、帝国大学農科大学の研究について、先行研究では日本の学問全体がドイツ学に傾倒した、駒場農学校の英国流が日本の実態とかけ離れていた、ドイツ系官僚農商務省品川弥二郎の影響による、英国よりもドイツの方が農業教育は発達しており人材が豊富だった、などが指摘されているが、決定的な論拠は十分に示されているとはいえない。しかし発表者は、獣医学教育における英人教師マックブライドからドイツ人教師への選択はスコットランド獣医学校教師からの紹介であったことを、史料発掘により具体的に明らかにした(2016年11月6日「大学史研究会第39回研究セミナー自由研究発表」レジュメ12~14頁参照)。本発表ではさらに資料を加え、獣医学教育の形成過程を中心に英国からドイツへの選択理由を明らかにする。また同時に、現在の教育史研究における縦割りの国別分析・考察方法ではなく、より学問上の進歩と比較検討に重点を置いた研究の必要性を唱えたい。
 本発表は、JSPS科研費15K04249「日欧米史料による帝国大学農科大学の総合的研究」(研究代表者熊澤恵里子)の研究成果である。
〔熊澤恵里子氏 記〕

2018年1月27日(土) 第619回例会:前田一男氏【プログラム・ノート】

日時:2018月1月27日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階 会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:歴史的転機としての長野県教員赤化事件(「二・四事件」)の研究
前田 一男 氏(立教大学)

【プログラム・ノート】
 長野県教員赤化事件(通称「二・四事件」)とは、「信州教育」と全国的に高く評価されていた長野県において1933年2月4日から半年あまりの間に、多くの教員などが治安維持法違反として次々に検束され、報道管制が敷かれつつ記事解禁後には大々的に報道された事件をいう。具体的には、教育労働運動に対する大規模な思想弾圧事件で、検挙取り調べ者608名のうち教員が230名を占めていたため、「教員赤化事件」と呼称された。尊敬の対象である教員が検挙されるという「未曽有の事件」は、その学校にとってだけでなくその地域社会にとって、またその家族にとって衝撃的な事件であり、社会的影響力は、各種新聞や教育雑誌などの報道によって、長野県にとどまらず全国に波及していった。さらにこの事件は、信州教育の「汚点」として猛省され、信濃教育会の指導のもと戦時下においては満蒙開拓青少年義勇軍の送出という国策の遂行において全国一位の実績をあげるまでになっていった。
 地域教育史の白眉とされている『長野県教育史』(全18巻 1972~83年)は、戦前と戦中との時期区分を明確に1933年の「二・四事件」においている。戦時体制へと向かう歴史的転機となった「二・四事件」とは、改めてどのような点で歴史的転機であったのか、なぜそれが教育県として名声を誇っていた長野県で起こったのか、いかにして「教員赤化事件」として仕組まれていくのか、その点で報道はいかに活用されたのか、これらのプロセスにおいて歴史的な教訓とは何なのか、という諸課題が浮上してくる。
 それらの諸課題を、「二・四事件」の背景にある大正自由教育からの批判的継承、特高警察による「教員赤化事件」としての構築過程、事件後の学校再建過程に見られる教権の独立への志向性、従来一方的な批判の対象であった信濃教育会内部の対立する指導体制分析といった観点を加えることで、その転換の意味と変質過程とを明らかにしていきたい。
〔前田一男氏 記〕

2017年12月23日(土) 第618回例会:吉野剛弘氏【プログラム・ノート】

日時:2017月12月23日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階 第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:近代日本における「受験」の成立:「資格」試験から「選抜」試験へ
吉野 剛弘 氏(東京電機大学)

【プログラム・ノート】
 発表者は、2016年2月に「近代日本における中等・高等教育制度の確立と「受験」の成立」という論文で博士(教育学)を授与された。この論文は、明治30年代から末年にかけての高等学校入試、受験準備教育機関、受験メディアなど、中学校と高等学校の接続に関わることを主な対象とし、それ以前の学校教育体系が未整備だった時期から何が変化したのか、あるいは変化しなかったのかを、送り出す側の中等教育機関と受け入れる側の高等教育機関双方の対応、さらに受験生の意識も視野に入れて、総合的に考察した。
 学校制度が整備されていなかった明治前期にあっては、入学試験は学校制度を整備するための梃子としての役割を果たしていた。高等教育機関は入学試験を課すことで教育水準を維持に務め、受験準備教育機関も中等教育機関も入学試験に通用する学力を担保するためにその水準の維持向上に努めた。その限りにあって、諸機関は同じ方向を向いていたといってよい。
 ところが、学校制度の整備とともに、入学試験という装置は引き継ぎながらも、その性格を変えることになった。その結果、同じ方向を向いていた諸機関は、その向きをそれぞれ変えていくことになった。高等学校は「選抜」を自明のものとして、選抜度の高い入学試験を維持した。予備校はそのような「選抜」により入学を果たしえない青年たちを親切なまでに支え、受験メディアは立身出世主義のメンタリティを保持する受験生を助長した。いわば「選抜」の下請けとなった。一方の中学校は、進学要求を持った青年を抱えつつも、自らの教育機関としての完結性を主張し、単なる上級学校への通過点、すなわち「選抜」の下請けであることから逃れようとした。この後の展開は、このように交錯する諸機関の思惑をいかに調整していくかということになる。20世紀の「受験」を規定する構図は、近代日本における学校制度の確立にともない成立したと結論付けた。
 そこで、本発表では学位論文の内容を中心に、その後出版に向けて加筆した点も含めて発表することにしたい。
〔吉野剛弘氏 記〕

2017年11月25日(土) 第617回例会:橋本昭彦氏【プログラム・ノート】

日時:2017月11月25日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 太刀川記念館 第1・2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:アメリカ小学試験情報の日本的受容の事例的考察―天野皎『下等小学諸科試験法』の発刊事情―
橋下 昭彦 氏(国立教育政策研究所)

【プログラム・ノート】
 アメリカの教師用図書シリーズとして定評のあった”Teacher’s Library”の一巻に、Issac Stone の”The Elementary and the Complete Examiner”という書物がある。中身は、教師が備えるべき知識を盛り込んだ問題集の相を呈しているが、1864年の初刊以来、1868年、1873年と版を重ねた書物である。
 日本では、1872年の「学制」施行以降、各府県では小学校に試験制度を導入すべく、相次いで「小学試験法」などの名称によって試験制度の規則を制定した。そうした中、1875年に大阪師範学校の訓導・天野皎(あきら)は、自著『下等小学諸科試験法』が「コムプレートエキザミネル」と題する書より訳出するものである旨を明らかにした。Stoneの原著は、明治政府によって収集され、文部省交付の印のあるものが国会図書館に収蔵されていて、両書を見比べるとなるほど原著と訳書の関係と言える。
 本報告では、両書の成立背景を調査・比較して、『下等小学諸科試験法』の発刊が持つ教育史的な意味を解き明かしてみたい。
〔橋本昭彦氏 記〕

2017年10月28日(土) 第616回例会:長谷川鷹士氏【プログラム・ノート】

日時:2017月10月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階 第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:「師範型」論の再検討―師範生徒の教養を巡る議論を中心に―
長谷川 鷹士 氏(早稲田大学・院)

【プログラム・ノート】
 発表者はこれまで「師範型」論について、その内容や妥当性を検討してきた。「師範型」といえば戦前の師範教育が生み出してしまった好ましくない教員像である。例えばそれは唐沢富太郎によれば「着実、真面目、親切などがその長所として評価される反面、内向性、裏表のあること、すなわち偽善的であり、仮面をかぶった聖人的な性格をもっていること、またそれと関連して卑屈であり、融通性のきかぬ」性質であるとされ(唐沢、1955)、あるいは山崎奈々絵によれば「視野が狭い、社会性に欠ける、権力に従順で主体的な判断力に欠ける」性質とされた(山崎、2017)。そして、そうした型の教師を生み出さないために戦後の教員養成は教養教育を重視する「大学における教員養成を原則とした。
 つまり「大学における教員養成」原則はある一面では「師範型」論に基づいて形成された原則である。「師範型」を再び生み出さないための原則である。従って教員養成政策を考える際に「師範型」を避けるという課題意識を考慮する立場もありうる。例えば沖塩有希子が教職大学院制度に対して「師範型」論を吟味した上での改革でないと批判していたり(沖塩、2013)、山崎奈々絵が戦後の教員養成は「師範型」克服という課題を等閑視してきたと批判しているのなどが代表的事例である(山崎、2017)。こうした立場がある以上、「師範型」の捉え方が重要な問題として指摘できるはずである。つまり「師範型」とはそもそも何を批判していたのか。「師範型」はそもそも現実の戦前の初等教員の性質をどの程度捉えられていたのか。こうした点を明らかにすることは「師範型」論に基づく教員養成批判を吟味することにつながる点で有用と考える。
 そこで今回の発表では教育雑誌上の言論や各種調査を用いて、師範生徒がどのような性質を持っているとされ、それがどのように問題視されていたのかを検討する。検討時期はおおよそ大正期とし、主に師範生徒の教養に関する言論を対象とする。そうした作業を通じて「師範型」論を再構成してみたい。
(参考文献)
沖塩有希子「教員養成教育のあり方に関する一考察:教員の資質能力向上に関する中央教育審議会答申を手がかりとして」『千葉商大紀要』51巻1号、p.69、2013.9。
唐沢富太郎『教師の歴史』創文社、1955、p.55。
山崎奈々絵『戦後教員養成改革と教養教育』六花出版、2017、p.259。
〔長谷川鷹士氏 記〕

2017年9月23日(土) 第615回例会:堀内孝氏【プログラム・ノート】

日時:2017月9月23日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階 会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:青森県農学校の開校―軍馬改良と獣医育成
堀内 孝 氏(明治大学・院)

【プログラム・ノート】
 明治から昭和にかけて、機動力、輓曳力などにすぐれた馬は、軍馬、農耕馬、輸送馬として、日本の近代化に欠かすことのできない存在だった。たとえば陸軍は、最後まで十分な機動力が実現しなかったために、軍馬にその役割を求めたのである。
 しかし、日清戦争、北清事変、日露戦争において、陸軍が直面した軍馬の実態は深刻なものだった。ここから日本の軍馬改良が本格化していく。平時における農耕馬や輸送馬も、戦時には軍馬として徴発されるため、すべての馬を改良する必要があった。軍馬改良は、陸軍にとどまらず、農商務省や御料牧場を管轄する宮内省、獣医を育成する文部省、財政を担当する大蔵省、そして東北や北海道などの馬産地を巻き込んだ、国家的課題だった。
 改良のポイントとして常に指摘されていたのが、従順さと、体尺の向上、機動力、輓曳力など能力の向上だった。従順さには去勢が、体尺の向上にはすぐれた種馬の購入が、能力については調教の質が、改良の鍵となった。それは一朝一夕になし遂げられることではなかった。結果として、緊急かつ大量に獣医の育成が求められるようになった。
 日清戦争後から、獣医育成機関として全国に農学校が開校していった。1898年、旧南部藩の領地であり、名馬の産地とされた青森県三本木村(現在の十和田市)に、青森県農学校が誕生した。
 三本木村は、誘致運動に積極的だった。その中心には、旧斗南藩士(旧会津藩士)の存在があった。彼らにとって、戊辰戦争に敗れ、青森県の冬の厳しさに打ちのめされ、廃藩置県にあい、三本木発展のために必死だった。学校は彼らにとって、希望だった。
 青森県農学校は、軍馬改良という国家的課題を背景に、地域の思いが結実して開校したのである。軍馬改良を中心とする背景と、青森県農学校の開校までの経緯を報告したい。
〔堀内孝氏 記〕

2017年7月22日(土) 第614回例会:大多和雅絵氏【プログラム・ノート】

日時:2017月7月22日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階 会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:戦後夜間中学校と学齢超過者
大多和 雅絵 氏(横浜市職員)

【プログラム・ノート】
 わたしはこれまで、戦後夜間中学校(以下、夜間中学校)を対象とし、とりわけ1970年代の夜間中学校の動きに着目し研究を進めてきた。夜間中学校に関するこれまでの研究は、尾形俊雄・長田三男や田中勝文などの研究に代表されるように1960-70年代に書かれたものが多く、それらが長らく主要な先行研究となってきた。近年では、浅野慎一や江口怜により1950-60年代頃の夜間中学校について改めて研究が進められてきているが、1970年代以降の夜間中学校の動きを十分踏まえて系統立ててまとめた研究というのは発表されていない状態であった。そのような状況下で、博士論文「戦後夜間中学校に関する歴史的研究―学齢超過者の権利保障の問題を中心に―」(2016年3月)は、1970年代以降の夜間中学校の動きに着目し、夜間中学校がいかなるものとして成立しているのか、その歴史的経緯と存立のメカニズムを学齢超過者の教育を受ける権利をめぐる動きに着目し論じたものとなった(『戦後夜間中学校の歴史―学齢超過者の教育を受ける権利をめぐって』六花出版より6月末に刊行予定)。
 わたしは夜間中学校のその開設初期の歴史というよりは、今日までの「存続」という歴史に関心を寄せ研究を進めてきたのだが、夜間中学校の今日までの存続にかかわる重要な変化が1970年代に起こったものと考えている。この時期の最も重要な変化として、教育対象者の移行が挙げられる。夜間中学校は1950年代には学齢生徒を対象として開設されたが、1970年代には学齢超過者(本発表では、学校教育法第17条で規定されている保護者が子にたいし就学させる義務を負う年齢を過ぎた義務教育未修了者を示す)を対象とする教育機関へと変容した。このことにより、夜間中学校を通して公教育とりわけ義務教育制度のなかでひとつの重大な問題が浮かび上がってくる。それは、義務教育未修了者・学齢超過者の存在である。
 本発表では、博士論文と近刊予定の著書のなかで明らかにした夜間中学校を通してみえてきた学齢超過者の教育機会をめぐる問題を報告するとともに、これらの問題についてより考察を深めることを目的とする。
〔大多和 雅絵氏 記〕

2017年6月24日(土) 第613回例会:山崎奈々絵氏【プログラム・ノート】

日時:2017月6月24日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階 会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:『戦後教員養成改革と「教養教育」』を刊行して
山崎 奈々絵 氏(聖徳大学)

【プログラム・ノート】
 2017年1月に刊行した単著『戦後教員養成改革と「教養教育」』の内容や刊行を通して改めて考えてみたことなどを発表したい。
 本書は、2014年3月にお茶の水女子大学大学院より博士号を授与された学位論文「戦後初期の教員養成改革―「大学における教員養成」の成立と一般教養の位置づけ」を加筆・修正したものである。そして本書の目的は、「一般教養を重視して『師範タイプ』を克服する」という改革当初の理念が教員養成系大学・学部では発足当初から実質が伴っていなかったことを明らかにすることである。主な対象時期は、敗戦直後から1950年代前半である。
 師範タイプ(あるいは師範型・師範気質など)とは、師範学校で養成された小学校教員を低く評価した言葉で、視野が狭い、国家権力に従順で統制されやすい、学力が低い、鵜屈しているというようなさまざまな意味で1900年頃から用いられてきた。師範タイプを生み出した実際の原因は師範学校や師範教育だけにあるわけではないが、戦後改革では師範タイプと師範学校・師範教育が否定され、新たに大学で学問や幅広い教養を重視して、幅広い視野を備えた自律的な教員を育成しようとした。ところが、師範学校を再編して発足した教員養成系大学・学部では当初から、改革時の理念が顧みられず、一般教養は軽視されていくことになった。
 戦後初期の師範学校では、一般教養とは文科・理科を幅広く学修することであり、それが小学校の教科専門教育(師範教育)と混同され、また、戦前の中等教員養成とも混同されていた。また、小学校の免許状とあわせて新制中学校の免許状も取得する学生あるいは取得させる学校が主流であり、したがって幅広い学修とあわせて特定の教科について深く学ぶ必要があった。戦後教育改革の方向性を定めた教育刷新委員会においても養成現場の師範学校においても、全科担任の小学校教諭と教科担任の中学校教諭をあわせて養成すべきか、養成できるのか、といった点は本格的に議論されないまま、小中両方の免許状(しかも中学校は複数教科の免許状)をあわせて取得するという実態ができあがっていくなかで、一般教養は小学校の教科専門教育(師範教育)と混同され、教員養成では教科専門教育を幅広く行うのだからことさら一般教養重視を強調する必要がない、ということになっていった。このように、一般教養が小学校の教科専門教育(師範教育)と混同されたからこそ、一般教養重視といった理念は限られた時期に一定の説得力を持ち、同時に一般教養の軽視にもつながっていった。本書は、こうしたことを大学所蔵の一次史料などを用いて描き出した。
〔山崎 奈々絵氏 記〕