日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

〒112-8681
東京都文京区目白台2-8-1日本女子大学

人間社会学部現代社会学科上田誠二研究室気付
TEL 03-5981-7531
【半角文字】ahsej@
ahsej.com

例会

日本教育史学会例会の開催

 日本教育史学会の例会は、会報やこのウェブページでお知らせする会場で、8月を除く毎月第4土曜日午後3時に開催されています。一人の報告者が、報告と討議をあわせて合計2時間の持ち時間で行います。通常の学会発表と異なり、充実した時間をつかた研究発表と討議が可能です。
 過去の日本教育史学会の例会記録は、『紀要』掲載の記録や記録のページをご覧ください。

例会の研究発表のご案内

 例会で研究発表を希望する会員は、日本教育史学会事務局にご相談ください。
 例会の研究発表者は、事前に事務局に「発表題目」とそれぞれ800-1000文字程度の「プログラム・ノート」(今回の発表内容の紹介)、800文字以内「発表者のプロフィール」(著書・論文や略歴などの紹介文の原稿)を提出してください。
 提出された発表題目やプログラムノートは、この日本教育史学会ウェブページで公開されます。このページに随時掲載しますので、ご参照ください。会員に送付する会報には発表者のプロフィールも含めた全文を掲載します。
受付 ahsej@ahsej.com【実際の送信はすべて半角英数字にしてください】


会場のご案内(例会開催場所)

 例会会場は、会報やこのウェブページに掲載します。永らく謙堂文庫を石川家のご厚意で使用しておりましたが、現在では立教大学などの大学会議室を借用しております。会場はその都度異なりますので、ご注意ください。
*2021(令和3)年2月からはオンラインでの開催をしております。

例会表示回数の変更
 2016(平成28)年4月より『日本教育史学紀要』第687頁(下記)に掲載のとおり、例会の回数表示を変更いたします。
「二〇一一年度以降の例会回数について、会報の号数と例会の通し回数が一致しない年がある(例会が実質開催されなかった月の存在等による)ことが判明しました。今巻より、例会の通し回数を優先させ、二〇一一年度からの例会回数を以下のように訂正いたします。二〇一一年度(第五四七回~第五五七回)、二〇一二年度(第五五八回~第五六八回)二〇一三年度(第五六九回~第五七九回)。」

活動報告

お知らせ(第29回石川謙賞について)

例年、4月例会は、石川謙賞の受賞者を囲んでの懇談会を開いておりますが、今年度、第29回、石川謙賞の審査の結果、「該当者なし」となりましたので、4月の例会は開催しないこと(休会)といたします。

2017年3月25日(土) 第611回例会:高瀬幸恵氏【プログラム・ノート】

日時:2017月3月25日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階 第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:戦時下におけるキリスト教主義高等女学校の妥協と抵抗―立教高等女学校を事例として―
高瀬 幸恵 氏(立教女学院短期大学)

【プログラム・ノート】
 立教高等女学校は、1877年に米国聖公会によって設立された立教女学校を前身とし、明治期に女子中等教育機関として発展を遂げ、1908年に高等女学校の認可を得たプロテスタント系のキリスト教主義学校である。同校の特徴として指摘できるのは、高等女学校令に基づく高等女学校として運営され、キリスト教主義を積極的に表明しない学校であったということである。
 1940年頃、高等女学校としての認可を得たキリスト教主義学校は、プロテスタント系はカトリック系に比して少なく、キリスト教主義の女子中等教育機関としてよく知られている宮城女学校高等女学部、青山学院高等女学部、フェリス和英女学校中等部、同志社高等女学部などは、専門学校入学者検定の認定を受けた各種学校であった。1899年の文部省訓令第12号により、学科課程に関して規定のある学校では課程内外において宗教教育を実施することはできなかった。宗教教育を実施できるのは、各種学校や専門学校などに限られたため、宗教教育の継続を目的として各種学校であることを選択する学校が複数あった。
 では、立教高等女学校において、宗教教育や礼拝が実施されなかったのか、また、国家の統制に対して抵抗がなかったのかというとそうではない。先述のキリスト教主義を積極的に表明しなかったという特徴と矛盾するように思われるが、御真影と教育勅語謄本の受け取りは他のキリスト教主義学校に比して最も遅い学校であった。高等女学校であることと、キリスト教主義学校であることのはざまで、同校はどのような妥協を重ね、またどのような抵抗しようとしたのだろうか。
 報告では、1930年代後半から1940年代前半までの立教高等女学校の動向を追うこととしたい。1935年には、宗教的情操の涵養に関する通牒によって、学校教育における宗教の取扱いについての文部省の見解が示された。この時期から総力戦体制となる1940年代前半までを対象とし、同校が国や地方行政から受けた統制の実態や、御真影と教育勅語謄本の受け取りをいかに拒み続けたのかを明らかにしたい。また、宗教教育や礼拝は、宗教的情操の涵養に関する通牒に矛盾しない形で―修養の一環として―継続されていたことについて資料に基づき紹介する。これらを通して、戦時下のキリスト教主義高等女学校が、継続できたものは何か、失ったものは何かについて検討するとともに、当時のキリスト教主義学校に対する統制のあり方について考察したい。
〔高瀬 幸恵氏 記〕

2017年2月25日(土) 第610回例会:国谷直己氏【プログラム・ノート】

日時:2017月2月25日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階 第1会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:昭和戦前期の茨城県教育と水戸学―「茨城県教育綱領」制定過程と水戸市竹隈小学校における訓育―
国谷 直己 氏(東洋大学・院)

【プログラム・ノート】
 昭和戦前の茨城県における郷土教育運動は、水戸学精神を涵養することが教育の目的となっていったことが、伊藤純郎や外池智の先行研究によって解明されている。しかしながら、報告者は水戸学と教育の関連性を、郷土教育の視点からのみでは完結できないと考える。茨城県において水戸学精神(弘道館記)と教育勅語の趣旨は一致すると捉えられ、郷土教育運動以前から「日本主義」に類する論理構造をもった教育論が表れていた。また、茨城県の郷土教育が『総合郷土研究』(茨城県男女両師範学校、1939年)の刊行をもって節目を迎えた後も、水戸学精神の教育はより一層色濃くなったように見受けられる。以上のような理由から、茨城県教育における水戸学の形成と展開を、郷土教育運動という枠組みの外から見直す必要があると考えたのである。そこで、本報告では以下の2点を取り上げる。
 1点目として、水戸学精神を基調とした「茨城県教育綱領」(以下、「綱領」と記す)の制定過程を再考する。外池は、茨城県の郷土教育運動を、「綱領」制定によって「一区切りを迎え」、「綱領」の実践化という形で「発展的に変容」したと位置づけた。しかしながら、「綱領」制定は郷土教育運動との連続性というよりも、県下教育界で起こった数々の不敬事件を収束させる役割が求められ、さらにその予防策として教員及び県民に水戸学精神を徹底させることが目的だった。
 2点目は、水戸市竹隈小学校における教員たちの教育観と実践である。竹隈小学校とは、「国民訓育連盟」の会員校の中でも、特に「訓育優良学校」とされた千葉東金小学校や神奈川鎌倉第一小学校、静岡大久保小学校と並んで称される城東小学校の前身校である。城東小学校は、水戸学精神を色濃く反映させた訓育論を展開し、『水戸学行城東の教育』(1941年)、『教行一如の教育』(1942年)を刊行した。それは、1933(昭和8)に竹隈小学校校長として赴任した山崎力之介が、訓導たちを指導・牽引してから躍動したようである。第一出版協会の編集者古閑停は、その訓育実践に目をつけ、雑誌『訓育』を1936(昭和11)年2月に創刊した。これに言及した先行研究は管見の限りない。その内容は、編集顧問の入澤宗寿、小西重直、長田新の論考と、竹隈小学校訓導たちによる実践研究が主となっていた。1938(昭和12)年になると他県他校の実践研究も登場し、同年8月に開催された全国的な講習会を経て「国民訓育連盟」が発足した。
 この間の史料調査で明らかになったそれらの様相を紹介したい。
〔国谷 直己氏 記〕

2017年1月28日(土) 第609回例会:田嶋一氏【プログラム・ノート】

日時:2017月1月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:1920年代の青年たちの自立への希求と自由大学運動
田嶋 一 氏(國學院大學)

【プログラム・ノート】
 今回の報告では、「青年の自立と教育文化」の問題を、1920年代の自由大学運動を手がかりにして考察してみたいと思います。
 かつて私は、「青年期の誕生」という論文を書いたことがありました。ここでは、日本の青年の歴史をとらえるために青年期の三層構造というパラダイムをつくってみました。その後、この論文をふまえて「<青年>の社会史―山本滝之助の場合」、「修養の社会史(1)―修養の成立と展開」「修養の社会史(2)―修養の大衆化についての事例研究」等の論文に取り組みました。一連の仕事の中で、近代日本の青年たちは自立することを求め続けてきたこと、青年の自己形成の問題と修養、教養の問題は深く繋がっていたこと、などを確信することができました(これらの論文は拙著『<少年>と<青年>の日本近代―人間形成と教育の社会史』東京大学出版会、2016、に収めました)。
 「修養の社会史(1)」では、青年の自己形成上の重要な概念となった<修養>と<教養>の成り立ちを私なりに素描し、両者の関係をとらえてみようと試みました。そして、文明開化期にcultivateの翻訳語として産み出され、青年の自己形成のキーワードとなった修養の用語と概念が、その後不幸にも<修養>と<教養>の二つに分かれてしまったことや、それぞれが青年の階層化に対応した独自の自己形成概念としての特徴をもつようになったことなどについて、理解を深めることができました。同時にこの論文の中で、青年期の人間形成のためのこのふたつの概念が一つのものに統合される可能性を示した運動として、私は自由大学運動に着目し、論文の中でこの運動に内在した未発の契機についての仮説的な見解を提出しておきました。この仮説を、三層構造論のパラダイムを生かしながら、青年たちの実態や願いに即して実証してみたいと考え、私はその後、「啓明会の教育運動と農民自由大学の構想―青年の自立と教育文化」(『國學院大學教育学研究室紀要』第50号、2016)をまとめてみました。ここでは師範学校出の教師たちの青年としての自立の軌跡を、農村青年の教育運動とからめて追ってみようと考えました。さらに続けて、今回、「1920年代の青年たちの自立への希求と自由大学運動」(『國學院大學教育学研究室紀要』第51号掲載予定、2017)という論稿をまとめてみました。「修養の社会史(1)」で提起した、自由大学運動の中では地域に生きる青年たちの自己形成の希求と都市知識人の新しい教養論が合流しようとしていたという仮説を、レンズをマクロからミクロに代えて、実際に確かめてみようと考えて取り組んだものです。
 今回の報告では、この論稿に取りかかってわかってきたこと、考えてみたことなどを報告させていただくことにしたいと思います。自由大学研究は、1970年代に入って自由大学研究会のメンバーを中心に盛んに行われ、大きな成果を上げています。その成果に学びながら、この運動に参加した青年たちの心の中に入り込んでみるとどんなことがわかってくるのか、青年たちのまなざしに私のまなざしを重ねてみるとどんな世界が見えてくるのか、などということを考えつつ、近代日本の青年期教育の歴史上きわめて重要なこの運動を「青年の自立と教育文化」という視点から報告させてもらうことにします。
 報告の内容は、①研究上の視点および先行研究、②自由大学運動の担い手となった青年たちの自立への希求―上田自由大学と伊那自由大学、③メンターとなった人たちの自立の課題と教育文化、④整理、となる予定です。②では、この運動に参加した青年たちの残した記録を分析してみる予定。③で取り上げるのは、土田杏村と高倉輝の二人です。
 私の研究は、始まったばかりです。皆さんに経過報告をして、いろいろな角度から検討していただき、研究を次に進める手がかりを見出したいと思います。また、今回の報告を通して、「青年の自立と教育文化」の歴史をより深く豊かにとらえる方法を鍛えることができればありがたいと思っています。
〔田嶋 一氏 記〕

2016年12月24日(土) 第608回例会:三ツ井崇氏【プログラム・ノート】

日時:2016月12月24日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:近代朝鮮における言語の政治史・社会史―教育史との接点を考えるための試論―
三ツ井 崇 氏(東京大学)

【プログラム・ノート】
 日本の朝鮮植民地統治時代の教育史の観点から研究する際、言語の問題は重要な論点の一つであることは言うまでもない。とりわけ学校教育の場における朝鮮語抑圧の実態は、支配の苛酷性を物語るものとしての認識が共有されている。しかしながら、言語の問題は(学校)教育の領域に限定されて論じられるものではない。近代朝鮮の「言語問題」は、教育史、社会言語学、歴史学の間で、議論の有機的な連関を持たないまま論じられてきたきらいがある。報告者はこれまで、朝鮮総督府の朝鮮語教科書編纂過程と朝鮮知識人の言語運動との関係性について解明し、さらに社会史の観点から朝鮮の「言語問題」をとらえる試みをしてきた。本報告では、その試みの一端を提示して、議論を喚起したい。
〔三ツ井 崇氏 記〕

2016年11月26日(土) 第607回例会:足立洋一郎氏【プログラム・ノート】

日時:2016月11月26日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:主体と慈善―成立期盲学校の設立者・支援者―
足立 洋一郎 氏(浜松視覚特別支援学校)

【プログラム・ノート】
 戦前、小学校の義務教育が半ば強制的に実施されたのに対し、盲、聾、知的障害、肢体不自由など障害児教育は、基本的に「放任」の状態であった。1872年発布の「学制」においては、何の説明もなく、「此の外廃人学校あるへし」と付記されたが、その後の教育令や第一次小学校令では「廃人学校」という文言すらなく、障害児は「就学猶予」「就学免除」という扱いになっていった。しかし、こうした中でも盲・聾教育は少し違っていた。先駆的に官立、公立の盲唖学校が1校ずつ設立され、その後多数の私立学校が設けられた。当事者や関係者の教育要求が高まり、1923年「盲学校及聾唖学校令」が公布された。本報告は、この法令公布までの成立期盲聾教育、とりわけ盲教育の特質について考察するものである。
 1900から1910年代にかけて慈善家や慈善団体などの支援を受け私立の盲学校、盲唖学校が多数設立されたが、いずれも小規模で経営難、教育環境も不備であった。通説では、こうした状況を「慈善学校的」とし、不十分とはいえ道府県立の盲学校、聾啞学校の設立を定めた「盲学校及聾啞学校令」はこれを改善、克服したものととらえられている。事実としては確かにそうであるが、やや否定的なニュアンスの「慈善学校的」という言葉でくくってしまうと、当該期の多様な側面をみえにくくしてしまうおそれがある。これは学校教育という枠にややとらわれているからではないかと思う。慈善事業の視点からみれば、当該期の盲啞学校は孤児院などと同様慈善の対象であった。教育制度上「放任」されていた盲学校、盲啞学校を理解するためには、学校教育と慈善事業という2つの視点からみていく必要があると考える。このことを論を進める前提にしたい。
 盲聾教育は、東京、京都の官立、公立の2校の盲啞学校で始まったが、その後私立の盲啞学校が設立され始め、1900年ごろからの慈善事業期からは多数の私立学校が設けられるようになり、1910年ごろの感化救済事業期からは一層増加し、盲生徒を中心に生徒数も増えた。この背景にはとりわけ盲人の教育要求の高まりや民間の慈善事業の展開、感化救済事業期からの県や市による補助金の増加などが考えられる。盲啞学校の設立者をみると、私立学校の設立者は当初、宣教師や医師、教師であったが、やがて当事者である盲人自身が設立の主体となることが多くなった。報告者が調べた範囲に限っても学校設立者の6割弱は盲人あるいは弱視者であった。これら当事者である設立者に協力して慈善家や慈善団体が積極的に支援、協力して学校が設立され、維持されたのである。1900年代から1910年代にかけて多数設立された私立の盲(唖)学校は「慈善学校的」であったが、「慈善学校的」なの内実は、当事者である盲人の「主体」による設立とそれを慈善家や慈善団体が支えた「慈善」であり、これが成立期盲教育の特質であった。
〔足立 洋一郎氏 記〕

2016年10月22日(土) 第606回例会:片桐芳雄氏【プログラム・ノート】

日時:2016月10月22日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:成瀬仁蔵研究の現代的意義―女性観、教育観、宗教観―
片桐 芳雄 氏

【プログラム・ノート】
 1901年に日本女子大学校を創設した成瀬仁蔵(1858-1919)研究の現代的意義は、以下の3点にあると考える。
 1.成瀬は、女性の主要な「天職」は、賢母良妻だと主張した。しかし現実に、結婚しない女性、子どものいない女性、夫と死別した女性などが存在する。アメリカに留学して、賢母良妻でありつつ、社会に貢献する活動(「公業」)に従事する女性たちの生き方を知った。成瀬は、女性を「人として」教育するために、女子高等教育が必要だと考えた。このような成瀬の女性観は、福沢諭吉等、いわゆる啓蒙思想家の女性観とは根本的に異なるものである。
 2.成瀬は、個人性と社会性は、本質的に一致すると考えた。その両者を共に獲得する道、それが、成瀬の言う「天職」である。そのためには、実践を重視した「自学自動」の教育が必要である。成瀬は、「実業的社会的教育」を主張し、日本女子大学校では、運動会や文芸会、縦の会や横の会などの自治活動が重視された。日本女子大学校は、新教育運動の高等教育版、と言うべきものである。
 3.19歳でキリスト教信者となり牧師となった成瀬は、新潟時代の経験を通して、30歳ごろから徐々に、キリスト教を相対化し始めた。アメリカ留学で「神学上の問題」に取り組んだ成瀬は、「将来の宗教」を模索するようになる。その果てに辿り着いたのが「帰一思想」であった。これは、彼の友人でもあったデューイの宗教観 A Common Faith、1934年(岸本英夫訳『誰でもの信仰』1951年、栗田修訳『人類共通の信仰』2011年)とも、意外なほど重なり合うものである。
 1の女性観をめぐる問題は、まさしく今日的問題であり、2の「自学自動」主義の教育は、アクティブ・ラーニングなどと、いまさらのように主張されているテーマであり、3の宗教をめぐる問題が、現代が求めている宗教観として重要である。
〔片桐 芳雄氏 記〕

2016年9月24日(土) 第605回例会:小林千枝子氏【プログラム・ノート】

日時:2016月9月24日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:戦後日本の地域と教育―京都府奥丹後から栃木県南地域へ―
小林 千枝子 氏(作新学院大学)

【プログラム・ノート】
 「書は人なり」ということばがあるが、私は「研究は人なり」と考えている。本発表では、まず私自身の研究者としての来し方を語ることからはじめたい。教育学は教育実践を研究する学問で、自分自身も実践者の一人であるというスタンスでやってきた。
 2014年に単著『戦後日本の地域と教育―京都府奥丹後における教育実践の社会史―』を公刊した。同書で明らかにしたことに加えて、その後、栃木県南地域をフィールドにした調査研究でわかってきたことも報告する。
1.教育史研究に社会史の方法を導入することの意義
 基底としての人口動態誌/政治史・制度史ではとらえきれないことがらへの視点/日常物質文化史資料/史資料の重要性/聞き書き調査の手法
2.「地域と教育」の転換期としての高度成長期
 地域と家族の人間形成のあり方の変貌/過疎と過密問題の青少年の将来展望への影響
3.奥丹後の教師たちの転換期への対応
 学校統廃合反対運動/「地域にねざした教育」/「目標学習」の構想と実践/地域住民の環境づくり運動/到達度評価/背後にあった政治環境としての革新府政
4.設置後わずか11年で統廃合になった栃木県下都賀郡の2中学校の調査研究から
 市町村合併の学校統廃合への影響/大きい学校が良いという発想へ
5.栃木県における口述の戦後教育史へ
〔小林 千枝子氏 記〕

2016年7月23日(土) 第604回例会:府川源一郎氏【プログラム・ノート】

日時:2016月7月23日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:鳥山啓の明治初期の仕事―ひらがなによる初等教育用教科書類の作成―
府川 源一郎 氏(日本体育大学)

【プログラム・ノート】
 鳥山啓(とりやまひらく・1873-1914)は、軍艦マーチの作曲者、あるいは南方熊楠の和歌山中学校における師として知られている。だが、鳥山は明治初期に翻訳啓蒙家として大きな仕事をした。それにもかかわらず、これまでほとんど鳥山の仕事については、言及されてこなかった。
 発表では、まず、彼が刊行した翻訳啓蒙書の代表的な著作である『さあぜんとものがたり』を検討したい。この本は、アメリカのリーダーであるSargent’s Standard Readerから、いくつかの教材を選んで訳した翻訳啓蒙書である。初編が1873(明治6)年、二編がその翌年に刊行された。同時期には、ほかにも翻訳啓蒙書を出版した人たちがいるが、それらの仕事は漢字仮名交じりの子どもが独力で読み進めるのには、難しい文章文体だった。これに対して、鳥山の翻訳は、きわめて平明で、ストーリー展開の面白さを満喫できる翻訳になっている。
 鳥山の先駆性は、この『さあぜんとものがたり』を始めとして、全文ひらがなによって記述した著作を数多く刊行したところにある。鳥山は、近代日本の教育制度を定めた「学制」に示された各教科用の初等教科書に該当する書物を、すべてひらがなによって記述した。この時期、各教科の教科書を独力で、それも文字改革を進めようという強い意志のもとに実際に出版にまでこぎ着けた人物は、鳥山を除いて他には存在しない。
 このように明治初年の鳥山の仕事は、きわめて先駆性に富んだ、教育的意義を持ったものだった。しかし、「かな」だけで記した子ども用の読み物は、大方の受け入れるところとはならなかった。教育に対する時代の要請は、子どもたちをできるだけ早く大人たちが使用している文章・文体の世界に導き入れることだったのである。結局、鳥山の試みは、時期尚早だったのだろう。しかし、実際に各教科の教科書となる児童読み物を作製し、それを続々と刊行したという業績は、今日あらためて見直され、再評価されてしかるべき意義がある。
〔府川 源一郎氏 記〕

2016年6月25日(土) 第603回例会:田中千賀子氏【プログラム・ノート】

日時:2016月6月25日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:近代日本における学校園―大正期の展開を中心に―
田中 千賀子 氏(武蔵野美術大学(非))

【プログラム・ノート】
 本報告では、2015年の拙著『近代日本における学校園の成立と展開』をもとに、主に明治後期の「学校園施設通牒」のもとで成立した学校園と展開について論じる。
 学校の自然環境に注目する教育実践は多く、とりわけ1980年代以降の環境教育は、学校園や学校ビオトープの整備を奨めてきた。さらに2006年の教育基本法改正に伴う環境教育に関する新たな規定をうけ、文部科学省が推進する「環境を考慮した学校施設(エコスクール)」には、学校ビオトープが自明のごとく設計に組み込まれている(『環境教育に活用できる学校づくり実践事例集』文部科学省、2013年9月)。
 こうして学校園は、現在では学内における教材用の花壇や農園、自然体験の場として認識されるものだが、本書では、日本の近代教育が始まって以来、学校への自然物の積極的な整備が推奨され始めた際に用いられた重要な概念として位置づけた。この推奨の契機となったのが1905(明治38)年に文部省よりだされた「学校園施設通牒」であり、これに関連する制度、人物の構想、事例を、明治初期から戦前までを対象に検討をおこなった。特に影響力をもった文部省学務局の針塚長太郎、東京高等師範学校の棚橋源太郎の焦点が初等教育にあったことをふまえ、初等教育における事例に対象を絞り、主に学校園施設通牒本文、公文書、学校文書、教育関係雑誌などの文書史料を用いて、学校園に関わる教育内容を教科横断的に考察した。
 なお、本書は学位論文「近代日本における学校園の成立と展開」(武蔵野美術大学/2011年9月30日学位授与)に加筆修正をおこなったものである。学校園施設通牒以後の展開に着目し、主に東京高等師範学校附属小学校、東京女子高等師範学校附属小学校、東京市の公立小学校を対象に加えた。とりわけ関東大震災後の学校園の整備においては、復興事業における小公園の計画と不可分の関係にあり、都市計画上の機能と学校教育上の機能をめぐって、複雑に展開されていったことを明らかにした(田中千賀子「東京市の公立小学校における学校園の展開」『日本の教育史学』第55集、教育史学会、2012年10月)。
 こうした学校園の多様な展開について紹介しながら、今後の課題としての大正期の新教育の実践と自然環境の関係を明らかにすることの展望についても論じていきたい。
〔田中 千賀子氏 記〕