日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

〒112-8681
東京都文京区目白台2-8-1日本女子大学

人間社会学部現代社会学科上田誠二研究室気付
TEL 03-5981-7531
【半角文字】ahsej@
ahsej.com

例会

日本教育史学会例会の開催

 日本教育史学会の例会は、会報やこのウェブページでお知らせする会場で、8月を除く毎月第4土曜日午後3時に開催されています。一人の報告者が、報告と討議をあわせて合計2時間の持ち時間で行います。通常の学会発表と異なり、充実した時間をつかた研究発表と討議が可能です。
 過去の日本教育史学会の例会記録は、『紀要』掲載の記録や記録のページをご覧ください。

例会の研究発表のご案内

 例会で研究発表を希望する会員は、日本教育史学会事務局にご相談ください。
 例会の研究発表者は、事前に事務局に「発表題目」とそれぞれ800-1000文字程度の「プログラム・ノート」(今回の発表内容の紹介)、800文字以内「発表者のプロフィール」(著書・論文や略歴などの紹介文の原稿)を提出してください。
 提出された発表題目やプログラムノートは、この日本教育史学会ウェブページで公開されます。このページに随時掲載しますので、ご参照ください。会員に送付する会報には発表者のプロフィールも含めた全文を掲載します。
受付 ahsej@ahsej.com【実際の送信はすべて半角英数字にしてください】


会場のご案内(例会開催場所)

 例会会場は、会報やこのウェブページに掲載します。永らく謙堂文庫を石川家のご厚意で使用しておりましたが、現在では立教大学などの大学会議室を借用しております。会場はその都度異なりますので、ご注意ください。
*2021(令和3)年2月からはオンラインでの開催をしております。

例会表示回数の変更
 2016(平成28)年4月より『日本教育史学紀要』第687頁(下記)に掲載のとおり、例会の回数表示を変更いたします。
「二〇一一年度以降の例会回数について、会報の号数と例会の通し回数が一致しない年がある(例会が実質開催されなかった月の存在等による)ことが判明しました。今巻より、例会の通し回数を優先させ、二〇一一年度からの例会回数を以下のように訂正いたします。二〇一一年度(第五四七回~第五五七回)、二〇一二年度(第五五八回~第五六八回)二〇一三年度(第五六九回~第五七九回)。」

活動報告

2016年12月24日(土) 第608回例会:三ツ井崇氏【プログラム・ノート】

日時:2016月12月24日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:近代朝鮮における言語の政治史・社会史―教育史との接点を考えるための試論―
三ツ井 崇 氏(東京大学)

【プログラム・ノート】
 日本の朝鮮植民地統治時代の教育史の観点から研究する際、言語の問題は重要な論点の一つであることは言うまでもない。とりわけ学校教育の場における朝鮮語抑圧の実態は、支配の苛酷性を物語るものとしての認識が共有されている。しかしながら、言語の問題は(学校)教育の領域に限定されて論じられるものではない。近代朝鮮の「言語問題」は、教育史、社会言語学、歴史学の間で、議論の有機的な連関を持たないまま論じられてきたきらいがある。報告者はこれまで、朝鮮総督府の朝鮮語教科書編纂過程と朝鮮知識人の言語運動との関係性について解明し、さらに社会史の観点から朝鮮の「言語問題」をとらえる試みをしてきた。本報告では、その試みの一端を提示して、議論を喚起したい。
〔三ツ井 崇氏 記〕

2016年11月26日(土) 第607回例会:足立洋一郎氏【プログラム・ノート】

日時:2016月11月26日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:主体と慈善―成立期盲学校の設立者・支援者―
足立 洋一郎 氏(浜松視覚特別支援学校)

【プログラム・ノート】
 戦前、小学校の義務教育が半ば強制的に実施されたのに対し、盲、聾、知的障害、肢体不自由など障害児教育は、基本的に「放任」の状態であった。1872年発布の「学制」においては、何の説明もなく、「此の外廃人学校あるへし」と付記されたが、その後の教育令や第一次小学校令では「廃人学校」という文言すらなく、障害児は「就学猶予」「就学免除」という扱いになっていった。しかし、こうした中でも盲・聾教育は少し違っていた。先駆的に官立、公立の盲唖学校が1校ずつ設立され、その後多数の私立学校が設けられた。当事者や関係者の教育要求が高まり、1923年「盲学校及聾唖学校令」が公布された。本報告は、この法令公布までの成立期盲聾教育、とりわけ盲教育の特質について考察するものである。
 1900から1910年代にかけて慈善家や慈善団体などの支援を受け私立の盲学校、盲唖学校が多数設立されたが、いずれも小規模で経営難、教育環境も不備であった。通説では、こうした状況を「慈善学校的」とし、不十分とはいえ道府県立の盲学校、聾啞学校の設立を定めた「盲学校及聾啞学校令」はこれを改善、克服したものととらえられている。事実としては確かにそうであるが、やや否定的なニュアンスの「慈善学校的」という言葉でくくってしまうと、当該期の多様な側面をみえにくくしてしまうおそれがある。これは学校教育という枠にややとらわれているからではないかと思う。慈善事業の視点からみれば、当該期の盲啞学校は孤児院などと同様慈善の対象であった。教育制度上「放任」されていた盲学校、盲啞学校を理解するためには、学校教育と慈善事業という2つの視点からみていく必要があると考える。このことを論を進める前提にしたい。
 盲聾教育は、東京、京都の官立、公立の2校の盲啞学校で始まったが、その後私立の盲啞学校が設立され始め、1900年ごろからの慈善事業期からは多数の私立学校が設けられるようになり、1910年ごろの感化救済事業期からは一層増加し、盲生徒を中心に生徒数も増えた。この背景にはとりわけ盲人の教育要求の高まりや民間の慈善事業の展開、感化救済事業期からの県や市による補助金の増加などが考えられる。盲啞学校の設立者をみると、私立学校の設立者は当初、宣教師や医師、教師であったが、やがて当事者である盲人自身が設立の主体となることが多くなった。報告者が調べた範囲に限っても学校設立者の6割弱は盲人あるいは弱視者であった。これら当事者である設立者に協力して慈善家や慈善団体が積極的に支援、協力して学校が設立され、維持されたのである。1900年代から1910年代にかけて多数設立された私立の盲(唖)学校は「慈善学校的」であったが、「慈善学校的」なの内実は、当事者である盲人の「主体」による設立とそれを慈善家や慈善団体が支えた「慈善」であり、これが成立期盲教育の特質であった。
〔足立 洋一郎氏 記〕

2016年10月22日(土) 第606回例会:片桐芳雄氏【プログラム・ノート】

日時:2016月10月22日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:成瀬仁蔵研究の現代的意義―女性観、教育観、宗教観―
片桐 芳雄 氏

【プログラム・ノート】
 1901年に日本女子大学校を創設した成瀬仁蔵(1858-1919)研究の現代的意義は、以下の3点にあると考える。
 1.成瀬は、女性の主要な「天職」は、賢母良妻だと主張した。しかし現実に、結婚しない女性、子どものいない女性、夫と死別した女性などが存在する。アメリカに留学して、賢母良妻でありつつ、社会に貢献する活動(「公業」)に従事する女性たちの生き方を知った。成瀬は、女性を「人として」教育するために、女子高等教育が必要だと考えた。このような成瀬の女性観は、福沢諭吉等、いわゆる啓蒙思想家の女性観とは根本的に異なるものである。
 2.成瀬は、個人性と社会性は、本質的に一致すると考えた。その両者を共に獲得する道、それが、成瀬の言う「天職」である。そのためには、実践を重視した「自学自動」の教育が必要である。成瀬は、「実業的社会的教育」を主張し、日本女子大学校では、運動会や文芸会、縦の会や横の会などの自治活動が重視された。日本女子大学校は、新教育運動の高等教育版、と言うべきものである。
 3.19歳でキリスト教信者となり牧師となった成瀬は、新潟時代の経験を通して、30歳ごろから徐々に、キリスト教を相対化し始めた。アメリカ留学で「神学上の問題」に取り組んだ成瀬は、「将来の宗教」を模索するようになる。その果てに辿り着いたのが「帰一思想」であった。これは、彼の友人でもあったデューイの宗教観 A Common Faith、1934年(岸本英夫訳『誰でもの信仰』1951年、栗田修訳『人類共通の信仰』2011年)とも、意外なほど重なり合うものである。
 1の女性観をめぐる問題は、まさしく今日的問題であり、2の「自学自動」主義の教育は、アクティブ・ラーニングなどと、いまさらのように主張されているテーマであり、3の宗教をめぐる問題が、現代が求めている宗教観として重要である。
〔片桐 芳雄氏 記〕

2016年9月24日(土) 第605回例会:小林千枝子氏【プログラム・ノート】

日時:2016月9月24日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:戦後日本の地域と教育―京都府奥丹後から栃木県南地域へ―
小林 千枝子 氏(作新学院大学)

【プログラム・ノート】
 「書は人なり」ということばがあるが、私は「研究は人なり」と考えている。本発表では、まず私自身の研究者としての来し方を語ることからはじめたい。教育学は教育実践を研究する学問で、自分自身も実践者の一人であるというスタンスでやってきた。
 2014年に単著『戦後日本の地域と教育―京都府奥丹後における教育実践の社会史―』を公刊した。同書で明らかにしたことに加えて、その後、栃木県南地域をフィールドにした調査研究でわかってきたことも報告する。
1.教育史研究に社会史の方法を導入することの意義
 基底としての人口動態誌/政治史・制度史ではとらえきれないことがらへの視点/日常物質文化史資料/史資料の重要性/聞き書き調査の手法
2.「地域と教育」の転換期としての高度成長期
 地域と家族の人間形成のあり方の変貌/過疎と過密問題の青少年の将来展望への影響
3.奥丹後の教師たちの転換期への対応
 学校統廃合反対運動/「地域にねざした教育」/「目標学習」の構想と実践/地域住民の環境づくり運動/到達度評価/背後にあった政治環境としての革新府政
4.設置後わずか11年で統廃合になった栃木県下都賀郡の2中学校の調査研究から
 市町村合併の学校統廃合への影響/大きい学校が良いという発想へ
5.栃木県における口述の戦後教育史へ
〔小林 千枝子氏 記〕

2016年7月23日(土) 第604回例会:府川源一郎氏【プログラム・ノート】

日時:2016月7月23日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:鳥山啓の明治初期の仕事―ひらがなによる初等教育用教科書類の作成―
府川 源一郎 氏(日本体育大学)

【プログラム・ノート】
 鳥山啓(とりやまひらく・1873-1914)は、軍艦マーチの作曲者、あるいは南方熊楠の和歌山中学校における師として知られている。だが、鳥山は明治初期に翻訳啓蒙家として大きな仕事をした。それにもかかわらず、これまでほとんど鳥山の仕事については、言及されてこなかった。
 発表では、まず、彼が刊行した翻訳啓蒙書の代表的な著作である『さあぜんとものがたり』を検討したい。この本は、アメリカのリーダーであるSargent’s Standard Readerから、いくつかの教材を選んで訳した翻訳啓蒙書である。初編が1873(明治6)年、二編がその翌年に刊行された。同時期には、ほかにも翻訳啓蒙書を出版した人たちがいるが、それらの仕事は漢字仮名交じりの子どもが独力で読み進めるのには、難しい文章文体だった。これに対して、鳥山の翻訳は、きわめて平明で、ストーリー展開の面白さを満喫できる翻訳になっている。
 鳥山の先駆性は、この『さあぜんとものがたり』を始めとして、全文ひらがなによって記述した著作を数多く刊行したところにある。鳥山は、近代日本の教育制度を定めた「学制」に示された各教科用の初等教科書に該当する書物を、すべてひらがなによって記述した。この時期、各教科の教科書を独力で、それも文字改革を進めようという強い意志のもとに実際に出版にまでこぎ着けた人物は、鳥山を除いて他には存在しない。
 このように明治初年の鳥山の仕事は、きわめて先駆性に富んだ、教育的意義を持ったものだった。しかし、「かな」だけで記した子ども用の読み物は、大方の受け入れるところとはならなかった。教育に対する時代の要請は、子どもたちをできるだけ早く大人たちが使用している文章・文体の世界に導き入れることだったのである。結局、鳥山の試みは、時期尚早だったのだろう。しかし、実際に各教科の教科書となる児童読み物を作製し、それを続々と刊行したという業績は、今日あらためて見直され、再評価されてしかるべき意義がある。
〔府川 源一郎氏 記〕

2016年6月25日(土) 第603回例会:田中千賀子氏【プログラム・ノート】

日時:2016月6月25日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:近代日本における学校園―大正期の展開を中心に―
田中 千賀子 氏(武蔵野美術大学(非))

【プログラム・ノート】
 本報告では、2015年の拙著『近代日本における学校園の成立と展開』をもとに、主に明治後期の「学校園施設通牒」のもとで成立した学校園と展開について論じる。
 学校の自然環境に注目する教育実践は多く、とりわけ1980年代以降の環境教育は、学校園や学校ビオトープの整備を奨めてきた。さらに2006年の教育基本法改正に伴う環境教育に関する新たな規定をうけ、文部科学省が推進する「環境を考慮した学校施設(エコスクール)」には、学校ビオトープが自明のごとく設計に組み込まれている(『環境教育に活用できる学校づくり実践事例集』文部科学省、2013年9月)。
 こうして学校園は、現在では学内における教材用の花壇や農園、自然体験の場として認識されるものだが、本書では、日本の近代教育が始まって以来、学校への自然物の積極的な整備が推奨され始めた際に用いられた重要な概念として位置づけた。この推奨の契機となったのが1905(明治38)年に文部省よりだされた「学校園施設通牒」であり、これに関連する制度、人物の構想、事例を、明治初期から戦前までを対象に検討をおこなった。特に影響力をもった文部省学務局の針塚長太郎、東京高等師範学校の棚橋源太郎の焦点が初等教育にあったことをふまえ、初等教育における事例に対象を絞り、主に学校園施設通牒本文、公文書、学校文書、教育関係雑誌などの文書史料を用いて、学校園に関わる教育内容を教科横断的に考察した。
 なお、本書は学位論文「近代日本における学校園の成立と展開」(武蔵野美術大学/2011年9月30日学位授与)に加筆修正をおこなったものである。学校園施設通牒以後の展開に着目し、主に東京高等師範学校附属小学校、東京女子高等師範学校附属小学校、東京市の公立小学校を対象に加えた。とりわけ関東大震災後の学校園の整備においては、復興事業における小公園の計画と不可分の関係にあり、都市計画上の機能と学校教育上の機能をめぐって、複雑に展開されていったことを明らかにした(田中千賀子「東京市の公立小学校における学校園の展開」『日本の教育史学』第55集、教育史学会、2012年10月)。
 こうした学校園の多様な展開について紹介しながら、今後の課題としての大正期の新教育の実践と自然環境の関係を明らかにすることの展望についても論じていきたい。
〔田中 千賀子氏 記〕

2016年5月28日(土) 第602回例会:石山秀和氏【プログラム・ノート】

日時:2016月5月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:戯作にみえる江戸の手習師匠
石山 秀和 氏(立正大学)

【プログラム・ノート】
江戸の戯作文学を近世史料として活用する試みは、当世の流行、すなわち都市江戸の文化を知る手がかりとして、歴史学にとって非常に多くの示唆を与えてくれたといえる。近年の研究成果では、青木美智男氏の業績が注目されるところである。

従来の教育史研究の中でも、いわゆる文学作品を取り上げて当時の教育の実態について考察した研究がなかった訳ではない。特に、都市江戸に暮らす人々の歴史を考察する場合、史料的な制約もあって、いわゆる古文書を中心とした文献史料にも限界があり、庶民を対象とした文学作品の史料的価値は無視できない。

ただし、戯作自体が虚構である限り、作品に表現された事柄を史実そのものと解釈することはできない。作品内容と符合する史実を、他の史料などを通じて復元する方法が求められるが、多くの人々に親しまれた作品の中の事柄が、史実そのものと判断できた場合、戯作文学が持つ史料的価値は非常に大きいものとなるだろう。

発表者はこれまでに、三馬、馬琴、一九の作品を通じて、都市江戸にみえる教育のあり方について考察してきた。教育の大衆化、なかでも馬琴の作品を中心にして、他人の模倣、すなわち流行ばかりを追いかける両親の姿から、大衆化した当時の教育社会の一側面について言及した。

本報告では、こうした大衆化した教育社会の中での、教師のあり方、すなわち手習師匠について江戸の戯作を中心に考察を進める。なかでも、都市江戸での特徴ともいえる女性の手習師匠についても触れる予定である。

〔石山 秀和氏 記〕

2016年4月23日(土) 第601回例会:第28回「石川謙賞」授賞式【プログラム・ノート】

日時:2016月4月23日(土曜日)午後3時から5時

会場:立 教 大 学 池袋キャンパス 12号館第2会議室 「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

プログラム:第28回「石川謙賞」授賞式及び受賞者との懇談会

受賞者:上田 誠二 氏(横浜国立大学非常勤講師)

【プログラム・ノート】

2016年度における第28回「石川謙賞」は、上田誠二氏に授賞することが決定いたしました。

授賞式後、上田氏にこれまでのご研究の経緯や、これからの抱負を伺い、これを中心に懇談を重ねながら、広く将来にわたる日本教育史研究の課題や研究方法について、お話し合いをしたいと存じます。

2016年3月26日(土) 第609回例会:高橋陽一氏【プログラム・ノート】

日時:2016月3月26日(土曜日)午後5時から7時
※3月の例会は、教育史学会理事会と重なるため、午後5時開始となりますのでご注意下さい。

会場:立教大学 池袋キャンパス 13号館会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:ワークショップの概念史―海後宗臣の教育学理論と実践を手がかりに―
高橋 陽一 氏(武蔵野美術大学)

【プログラム・ノート】

ワークショップという用語が21世紀に入ってから再び広がっている。現在も言語活動やアクティブ・ラーニングなど学習方法の見直しの動きから、学校現場でも急速に浸透している。ワークショップがアメリカの進歩主義教育運動の産物として新しく定義し直された用語であることは、多くの実践者に知られているが、しかし、「研究集会」をワークショップの日本語訳とした戦後教育改革における移入など、日本における歴史的経緯が忘れ去られている。

本報告は、ワークショップという用語について用例的研究を歴史的に検討する必要を述べるとともに、さらにその機能と実態を解明する必要があることを、概念史として提起するものである。そのため、日本最初のワークショップといえる1947(昭和22)年の海後宗臣の実践事例に注目して、戦後教育改革における定着過程を検討する。海後宗臣自身はワークショップという概念の詳しい説明をしているわけではないが、海後の実践を言及した大照完『教師のワークショップ』1950年をはじめとして、戦後教育改革におけるワークショップの手法や影響を述べた様々な言説から、同時代の新概念の理解を明確にしたい。

さらに、報告者がすでに『ワークショップ実践研究』2002年などにおいて提起したワークショップの概念論を踏まえて、改めて海後宗臣の教育概念に注目する。彼の陶冶、教化、形成という周知の概念が、ワークショップ概念の再検討に寄与することを論じたい。海後宗臣自身が、ワークショップそのものの定義を述べたわけではないが、ドイツ教育学をもとに総力戦のための教育学を構想した彼の学説に、戦後教育改革をリードした優位性がどのようにあったのかを明らかにする。

このように海後宗臣の教育学理論と、彼自身のワークショップ実践を手がかりとすることで、現在の流行とさえ言えるワークショップという言葉を、教育学の概念や教育史上の対象として明確に位置づけることが、本報告の目的とすることである。

〔高橋 陽一氏 記〕

2016年2月27日(土) 第608回例会:山梨あや氏【プログラム・ノート】

日時:2016月2月27日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1
   〔TEL:03-3985-2166〕

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:1930~40年代にかけての農村における「教育」―長野県下伊那地方の小学校における学校、家庭、地域社会の「連絡」に注目して―
山梨 あや 氏(慶應義塾大学)

【プログラム・ノート】

本発表の目的は、1930~40年代にかけての農村社会における「教育」のありようを、長野県下伊那地方の小学校における学校、家庭、地域社会の「連絡」に注目しながら明らかにすることである。発表者はこれまで、戦前から戦後にかけての長野県下伊那地方における読書活動とその教育的役割に関する研究を行ってきた。研究の過程で注目されたのは、戦後の読書活動に携わった人々の多くが、当該地域における戦前の小学校における教育経験(小学校における綴方や教員による本の「読み聞かせ」、青年団が小学校に協力した文庫活動)、さらには地域の「教育的雰囲気」に言及することであった。「教育県・長野」は学校教員の自負や世間一般の「ステレオタイプ」にとどまるものではなく、この地域で生まれ育った人々にとってはある種の「実体験」として認識されているのである。

ここで新たな課題として浮上するのは、当該地域における戦前から戦後にかけての「教育的雰囲気」とはどのようなものであり、それはいかにして醸成されたのか、という問題である。この問題を解くには、長野県下伊那地方において、小学校がどのような教育活動を展開し、それが地域社会においてどのような意義と役割を有していたのかを明らかにする必要がある。本発表では、1930~40年代の下伊那地方における小学校資料を分析することにより、当時の小学校におけるアクチュアルな「教育問題」と学校・教員側の取り組みを明らかにし、この課題に迫っていきたい。

具体的には、長引く経済不況や農村恐慌、社会主義思想を有する「赤化教員」弾圧として知られる「二・四事件」を経験する過程で、自覚的に「学校と家庭の連絡」という教育目標に取り組んだ下伊那郡上郷尋常高等小学校を事例として取り上げ、同尋常高等小学校の学校資料(「職員会誌」、「家庭訪問記録」ならびに「懇話会記録」及び地域資料(村報として発行されていた『上郷時報』)等を分析することにより、小学校が家庭、さらには地域社会とどのような「連絡」、協力関係を模索しつつ、当時の「教育問題」に取り組もうとしていたのか、一方で家庭や地域社会は農村における「教育」をどのように捉え、何を期待していたのかを明らかにしていきたい。

〔山梨 あや氏 記〕