<第647回例会>
*日 時:2021年12月25日(土曜日) 午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年12月22日(水曜日) 午後11時59分
*参加方法は、p.3「インターネット上での例会参加の事前登録について」をご覧ください。
*プログラム:
☆「樺太のマイノリティはどう生きたのか」
池田 裕子 氏
司 会 大島 宏 氏
【プログラム・ノート】
先住民の島・サハリン島の近代は、19世紀後半以降、日露間で締結された条約による国境変動と現地行政機関の施策に伴う形での、規模を問わない住民移動が繰り返された歴史であった。そのなかで1905年から1945年にかけて存在した日本統治下の樺太社会は、国際情勢の狭間で翻弄されながらも生き抜いたエスニック・マイノリティ(先住系住民だけではなくヨーロッパ系住民、アジア系住民も含む)と、日本内地から移住し、エスニック・マジョリティとなったヤマト系住民(内地人)からなる「多数エスニック社会」としての実態を有した。本報告は樺太のエスニック・マイノリティに焦点を当て、彼らがどのような環境下で樺太を生き抜いたのかを、主に文化政策の観点から明らかにしようとするものである。
樺太のマイノリティに関する史料は概して少なく、彼らが置かれた環境については現在もその全体像を明らかにすることはできていない。そうしたなかで比較的史料が残されている先住民については、テッサ・モーリス=鈴木が『辺境から眺める アイヌが経験する近代』みすず書房(2000年)で日本とロシアの先住民政策の比較という観点から近代国家による先住民族に対する統合と排除の論理を提示した。その後、田村将人は「樺太庁による樺太アイヌの集住化」『千葉大学ユーラシア言語文化論集』5(2002年)以降、樺太における先住民政策に関する一連の研究を発表し、その特徴を北海道との異同も交えて検討した。その他のエスニック集団については三木理史や中山大将などの研究はあるものの、教育などの文化政策については管見の限り限定的で断片的な記録しか見出せていない。
そこで本報告では樺太社会の全体像解明の一助として、エスニック・マイノリティの教育状況の概観を試みる。続いて樺太庁の先住民認識がどのようなものだったのかについて確認した後、1913年から1914年にかけて東海岸のアイヌ村落を調査した「土人事務嘱託」の山元善八による『復命書』を用いて、当時の対アイヌ教育の実態を明らかにする。最後に1925年1月に締結された日ソ基本条約直後のタイミングで樺太庁長官により奏請され、1925年8月に実施された皇太子の樺太行啓において先住民がどのように捉えられていたのかについて見ていく。樺太統治と皇室との関わりに留意しながら当地で少数であったということの意味について考えてみたい。樺太社会とはどのような社会であったのか、そのなかでエスニック・マイノリティがどう生きたのかを歴史に問いかけてみることで、ともすれば埋もれてしまいそうな現象の中に、これからの日本社会について考えていくための示唆を探したいと考えている。
〔池田裕子氏 記〕