日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

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活動

3月22日第677回例会(学習院大学会場)川村肇氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第677回例会>
*日   時:2025年3月22日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:学習院大学 北一号館2階教育学科模擬教室
*プログラム:韓国近世教育史と韓国識字史研究
                            川村  肇 氏
                        司 会 大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
 韓国の近世教育史(李氏朝鮮時代教育史)は、渡部学『近世朝鮮教育史研究』(1969年)の出版以降、長い間日本に紹介されることがなく、日韓の間で近世教育史研究の交流が行われることもほとんどなかった。同様に識字史に関する研究も、同じ中国漢文文化圏から出発している両国であるにもかかわらず、研究交流はなかった。
 報告者はこの間、自分の研究の一部をハングル訳するとともに、韓国の近世教育史および識字史にかかわる研究を翻訳、紹介してきた。
 本報告では、(1)韓国近世教育史の特徴について、科挙採用による、学校教育の体制化、②儒教文化および文人政治による儒学者の政治参加と政治運動と学校教育、③教育史関連使用資料について述べ、(2)識字史に関連して、①漢文の訓読の特徴、②ハングル創製とその普及について紹介し、(3)韓国近世史の中の、①書院研究、②初等教育教材研究などについて韓国の研究成果を紹介する。なお、この間に報告者が翻訳した韓国教育史関連の翻訳論文は、獨協大学国際教養学部紀要『マテシス・ウニウェルサリス』に掲載されている。
                              (川村 肇氏 記)

2月22日第676回例会(学習院大学会場)佐喜本愛氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第676回例会>
*日   時:2025年2月22日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場: 学習院大学 北一号館2階教育学科模擬教室
*プログラム:小学校の兵式体操教具「木銃」「指揮刀」に関する教育史研究
        ―〈モノ〉からみた教育史研究―
                              佐喜本 愛 氏
                     司 会 須田 将司 氏

【プログラム・ノート】
 報告者は、教育史研究の中でも特に「モノ」「コト」からみた教育史研究に示唆を得て、小学校の兵式体操で使用された体操教具「木銃」と「指揮刀」という〈モノ〉に着目し、その取り扱いを通して小学校段階での兵式体操の実態解明を試みてきた。
 「木銃」という体操教具の使用とその普及はトップダウンのプロセスは経ず、文部省はその使用に消極的態度をとり続け、陸軍省も小学校の児童自らが銃を使用することを想定してはいなかった。それにも関わらず、各地の小学校に「木銃」は登場し、教科(体育)の時間や学校行事(儀式、運動会、遠足など)で使用され、学校の内外で人々の目に触れる教具となった。なぜなのか。年代や性別を問わず多くの人々の注目を集めたこの体操教具「木銃」「指揮刀」の使用には、当時の小学校教育を取り巻く人々(教員、地域住民、教材教具業界、軍隊関係者)の教育観、子どもの教育実践の諸相が表れているのではないかと考え、報告者はその視点から研究を進めてきた。
 具体的には、小学校の兵式体操に関する文部省および各地方の政策の展開を木銃に焦点をあてつつ明らかにし、兵式体操の指導にあたった担当教員の養成と彼らの銃についての考え方やニーズを分析するとともに、使用された木銃の種類、製造、販売の有り様を解明し、さらに木銃が実際にどのような場面でどのように使用されてきたのか(使用方法、維持・保管方法)を詳らかにした。加えて木銃と同時に用いられていた「指揮刀」にも研究対象を広げ、木銃、指揮刀を用いた兵式体操の具体像を示し、地域住民、企業(教材業者)、軍隊が連携しながら展開した近代日本における小学校教育の特質を論じた(『木銃の社会史-小学校教育における表象と国民形成-』(六花出版、 2021年刊行)。
 本報告では、その成果と残された課題を整理し、拙著刊行後に収集した史料紹介、研究の進捗状況を報告しながら、今後の研究の展望を示していければと考えている。
                         〔佐喜本 愛氏 記〕

1月25日第675回例会(学習院大学会場)荒井明夫氏の研究発表【プログラム・ノート】

*日   時:2025年1月25日(土曜)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:学習院大学 北一号館2階教育学科模擬教室
*プログラム:『明治前期の国家と地域教育』を刊行して
                      荒井 明夫 氏
                  司 会 大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
 報告者は、2024年11月に『明治前期の国家と地域教育』(吉川弘文館)を刊行した。これまでの報告者による研究成果は『明治国家と地域教育-府県管理中学校の研究』(2011年、吉川弘文館)と、編著に『近代日本黎明期における「就学告諭」の研究』(2008年、東信堂)、また川村肇氏との共編著『就学告諭と近代教育の形成』(2016年、東大出版会)、がある。後半2著は、いずれも第一次及び第二次就学告諭研究会による共同研究の成果である。
 今回刊行した『明治前期の国家と地域教育』は、そうした共同研究の成果および、共同研究1880年代教育史研究会と就学史研究会での、二つの共同研究の成果をさらに採用した。
その意味で、報告者にとってこれまでの研究の集大成の意味をもつ内容である。
 やや具体的に内容に即して述べると、まず第一に前著『明治国家と地域教育-府県管理中学校の研究』で残した課題である文部大臣管理鹿児島高等中学造士館と、文部大臣管理山口高等中学校研究を、『明治前期の国家と地域教育』の第三部に5本の論文で配置したこと、である。第二に(共)編著として刊行した就学告諭研究の成果および、共同研究である就学史研究会の成果を採用したこと、にある。
 本報告では、前著である『明治国家と地域教育-府県管理中学校の研究』と『明治前期の国家と地域教育』との研究視点と方法を確認し、後者の成果を明らかにする。その上で、後者の自己評価(総括)と残された課題を明確化する中で、今後の近代日本教育史研究の課題を明示したい。
                              〔荒井 明夫氏 記〕

12月21日第674回例会(日本女子大学会場)鈴木敦史氏の研究発表【プログラム・ノート】

12月21日第674回例会(日本女子大学会場)鈴木敦史氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第674回例会>
*日   時:2024年12月21日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:日本女子大学 目白キャンパス 百二十年館3階 現代社会学科 実習室
*プログラム:明治十四年の地方巡幸における山形県での学校、生徒の対応
―『山形新聞』の記事に着目にして―
                 鈴木 敦史  氏
             司  会  大島  宏  氏

【プログラム・ノート】
 本報告は、明治十四年の地方巡幸での地域の学校や子どもたちの対応を、山形県を事例に検討するものである。
 明治期の地方巡幸は、明治維新後の近代国家形成期において新たな統治者としての明治天皇が、その近代的君主像を全国に広めるために行った「プロパガンダ」「ペイジェント」とされる。また教育史研究においても、後に御真影が各地の学校に「下賜」され拝礼が儀式化される以前の、実物の天皇が初めて人々の眼に触れた機会として位置づけられる。
 山形県への巡幸は明治十四年に実施され県内では天皇を迎える準備が進められたが、そこには明治7年に旧酒田県令に着任し、明治9年に成立した新制山形県ではその初代県令に就いた三島通庸の強い政治的リーダーシップがあった。
 本報告では、こうした地方巡幸での地域の学校や子どもたちの対応を、その様子を報じた『山形新聞』の記事を参考に検討する。『山形新聞』は、国学者平田銕胤のもとに学んだ豪農の遠藤慎七郎とその弟の司が山形活版社を興し、明治9年9月1日に第1号が創刊された。明治十四年巡幸当時は、国会開設の機運が高まるなかで、同年10月に自由党が結成されると県内でも新聞の政党機関紙化が進み、『山形新聞』も自由党の機関紙として内務省へ届け出た。また当時は、讒謗律とともに新聞紙条例(共に1875年)が出されるなど、言論に対する厳しい統制が布かれた。新聞各紙は露骨な反政府的態度は抑えつつも政府に対する批判的立場は保持していくという難しい運営を強いられていた。
 一方、山形への明治天皇の来訪を報じた当時の『山形新聞』の記事には、政治的党派性からは距離を置く、地域の実態を率直に伝えるものが少なくない。「土木県令」「鬼県令」として知られる三島通庸の山形での県政運営は、強権的で人々からの強い反発を招いた一方で、三島の進めた地域社会の近代化を評価する声は県内でも少なくなかった。地方巡幸での明治天皇の来訪を見越して進められた山形県内の近代化は、強権的な県政への不満と地域の開化への評価という三島県政に対する複雑な感情をもたらしながら進められたのであり、それが紙面にも表れたのだと考えられる。
 山形県への巡幸が実施された当時は、後に文部大臣に就いた森有礼が天皇への「忠誠」や「愛国心」を学校教育において醸成を図る以前の、地域社会における天皇の位置づけがいまだ定着していない時期であり、故に新たな統治者である天皇への地域社会の人々の、より率直な対応が見られる場面でもあった。加えて、明治12年以降に「教学聖旨」をめぐり政府内で展開するヘゲモニー争いにより、学校教育の位置づけが宮中保守派と開明派との間で交錯する不安定期でもあった。本報告では、こうした当時の地域の学校や子どもたちの明治天皇への対応を検討することで、天皇の位置づけが教育制度のなかで位置づく以前の、地域における天皇像の一端を明らかにしてみたい。
                   〔鈴木敦史氏 記〕

11月23日第673回例会(日本女子大学会場)宇津野花陽氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第673回例会>
*日   時:2024年11月23日(土曜・祝日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:日本女子大学 目白キャンパス 百二十年館3階 現代社会学科 実習室
*プログラム:1950年代の高等学校学科家庭科における被服教育の展開
   ―衣生活の変容と教育・家庭・職業―
                 宇津野 花陽  氏
           司  会   天野 晴子  氏

【プログラム・ノート】
 戦後の教育改革において新制高等学校の家庭科は、普通教育の教科としての家庭科と専門教育を主とする学科としての家庭科(以下、「学科家庭科」)の二つに分かれて成立した。学科家庭科はその性格により小学科(家政、被服、食物、保育など)に分類され、戦後当初は被服、食物、保育が示されて、被服についてまとまったカリキュラムをもつ被服関係学科が最多であったが、1952年に家庭生活教育に重点を置く課程として家政関係学科(家庭課程)が設置されて以降は家政関係学科が最多となっていった。
 これまで、学科家庭科についての研究としては家政関係学科の研究が中心であった。また、家庭科および前身諸科目の裁縫、家事などについて、教育史研究では良妻賢母のイデオロギーに焦点を当てた研究、家庭科教育、家政学の研究では教科書など教育内容の分析から教育的意義を考察する研究が多く、実生活との関係において教育の実態を捉える研究は少なかった。
 本報告は、制度的に職業教育に位置づけられた被服関係学科の機能に焦点を当て、1950年代において専門的職業教育機能を広く持たなかった歴史過程を論証することを試みる。1950年代に着目するのは、戦前の女子教育において裁縫の占める割合が高かったために被服教育の施設・設備や教員が多かった時期であり、洋装化・既製服化という衣生活の大きな変化とともに家庭での衣服製作の時間が縮小する一方で女性の職業機会も増大するなか、学科家庭科の被服教育が専門的職業教育機能をもつとすれば最も可能性の高い時期であったと考えられるからである。
 各自治体における学科家庭科の設置状況、施設・設備や教員の配置、教育課程、卒業後の進路など被服教育の実態を明らかにするとともに、地域差や階層差にも留意しつつ衣生活をめぐる女性の職業生活と家庭生活の実態を解明した上で教育との関係について論証する。資料としては、学科家庭科関係の資料(文部(科学)省資料、都道府県教育史、高等学校/洋裁学校沿革史誌、高等学校家庭科教科書、洋裁学校テキストなど)、産業および職業指導関係資料(工業統計、商業統計、職業指導雑誌、新聞広告など)、生活時間資料等を用いる。
                   〔宇津野花陽氏 記〕

10月26日第672回例会(学習院大学会場)氏の研究発表【プログラムノート】

 <第672回例会>
*日   時:2024年10月26日(土曜日)午後3時~5時(対面で実施)
*会   場:学習院大学北一号館2階教育学科模擬授業教室
*プログラム:「学徒隊」の構想とその具現―1939~45年の「有事即応態勢確立」論議に着目して―
                    須田 将司  氏
               司  会  前田 一男  氏

【プログラム・ノート】
本報告は、科研費補助金(基盤研究(B))「「戦時教育令」と教育の崩壊過程に関する総合的研究」(研究代表・斉藤利彦、2021~2023年度)の『研究成果報告書』(2024年3月)に寄せた論稿をもとに行う。
1945年5月22日の戦時教育令第三条には、「戦時ニ緊要ナル教育訓練ヲ行フ為」の「学徒隊」組織化が記された。同年6月6日の内閣情報局編『週報』に掲載された「戦時教育令の解説」は、「学徒隊」に関する内容が中心であり、その具現が最大の政策課題であったことが読み取れる。これはひるがえせば、その母体となった国民学校・青年学校単位の「大日本青少年団」と中等学校以上の「学校報国団」では、本土決戦に十分に対応することが出来ない、との政策決定がなされたことを意味する。だが、先行研究では、その政策課題が生まれる経緯や具現に関して論及したものはわずかである。本報告は、この点を1939年の「学徒隊編成問題」からの系譜で捉え直すことを試みる。
この着眼のきっかけは、2つの記事(論調)を見出したことにある。一つ目は、1944年1月の『興亜教育』誌上で文部省体育官・高橋眞照が述べていた、「大日本青少年団」と「学校報国団」が「二本建」であることへの疑義である。高橋の論調に添うならば、その後に登場した戦時教育令は両者の「二本建」を廃し、「一本化」を命じたものとなる。二つ目は、1945年3月27日付『朝日新聞』の論述である。そこでは「待望久しかつた学徒の戦闘的訓練組織“学徒隊”」といい、「そもへの提唱者は六年前の荒木文相であつた」と述べられていた。いわば1945年の「学徒隊」が1939年の〔荒木学徒隊案〕の改変である、との当事者意識が示されている。これら2つの記事を重ね合わせるならば、〔荒木学徒隊案〕→「大日本青少年団」と「学校報国団」の「二本建」→戦時教育令による「学徒隊」への「一本化」という歴史像が浮かび上がってくる。
この歴史像を検証するには、なぜ〔荒木学徒隊案〕の後に「二本建」の青少年組織が登場し、やがて問題視され、その解決策として「一本化」が浮上したのか、を辿ることが不可欠となる。その際、「有事即応態勢確立」という軍部の要求に留意したい。これは、〔荒木学徒隊案〕に内在し、1943年以降の論議において前面に出てくるキーワードである。この要求が、「学校報国隊」と「大日本青少年団」の「二本建」の不備を衝き、「一本化」へ至る論議を具体化させていくことを辿ってみたい。
これに加え、1945年の「学徒隊」結成による「新たな」事態(その具現の様相)を、本研究に関わる調査で明らかとなった新聞報道や各府県広報に捉える。これにより、「有事即応態勢確立」の要求がもたらした戦争末期の教育の姿を多面的に照らし出してみたい。
                           〔須田将司 記〕

7月27日第671回例会(オンライン実施)和崎光太郎氏の研究発表【プログラムノート】

<第671回例会>【プログラムノート】
*日   時:2024年7月27日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2024年7月24日(水曜日)  午後11時59分
*参加方法は、「インターネット上での例会参加の事前登録について」をご覧ください。
*プログラム:〈知的障害〉と学校
                       和崎 光太郎 氏
            司  会  前田 一男  氏
【プログラムノート】
 報告者は近年まで、〈青年〉など教育に関する概念の歴史、および学校の特にこれまで看過されてきたもの・ことの歴史に興味を抱き、研究を進めてきた。本報告では、これまでの報告者の研究成果を基礎として、教育史学として扱うには真新しい〈知的障害〉という概念が学校とどのようにリンクしているのか、その見取り図を描くことを試みたい。
 なぜ概念を対象とするのか。概念研究といえば、「実態なのか概念なのか」という問いが提示されがちであるが、この二項対立における「概念」ではなく、議論の段階ですべての実態は概念化されていることに常に意を用いたところの概念を研究対象とする。ここに概念史研究は、単に概念の意味変容をなぞるだけの作業ではなく、実態史のダイナミズム(力学関係)を支えた思想的基盤を解明するための必要不可欠な研究となる。
 〈知的障害〉という概念をターゲットとする理由は、社会的弱者を扱いたいという慈善的心情や義憤ではなく、これまで看過されてきたという穴埋め的な発想でもない。代替不可能な障害といわれる〈知的障害〉は、「学校の位置が社会や生活で占める部分が大きくなり、知識量とその操作能力が人の価値を左右するような時代では、知的障害児は生きづらい」(中村満紀男編『日本障害児教育史【戦後編】』明石書店、2019年、902頁)という状況を引き起こす特性をもつ者を集団として把握する概念であり、この意味において、〈知的障害〉と学校というテーマは近代学校またはそこで行われた教育の実態をよりリアルに炙り出し得ると考えるからである。この「生きづらい」状況は、学校内ではなく学校化された社会においては、小学校(小学部)より中学校(中等部)、中学校(中等部)より高等学校(高等部)、高等学校(高等部)より大学(高等部専攻科)と就学年齢が上がり、学校の機能が「知識量とその操作能力」に重きを置かれるにつれて顕著になる。例えば、高等学校ではなく特別支援学校高等部に在籍する生徒は、「高校生」ではない。しかし、「学校階梯に回収される可能性を持っていたあらゆる者がどう影響を受けたのか」(拙稿「ピラミッド型学校階梯の機能――包摂が生み出す「排除」、排除が生み出す「包摂」――」『大学史研究』第27号、2019年、197頁)という点から学校階梯を視野に収めるならば、高等部在籍生は「高校生」という他者を常に参照しながら自己を把握するのが常であり、特別支援学校生に半ば強いられているこのような「把握」は一体何なのか、この「把握」はどのように構築され、どこに向かおうとしているのかという問いに対して、現在の学問水準では何も回答できないのである。
 以上の問題意識から、本報告では、〈知的障害〉の現在の位置を定義レベルと社会的認識レベルで整理し、〈知的障害〉の成立史を学校との関係において整理することで、冒頭で述べた見取り図を提示したい。
                        〔和崎光太郎氏 記〕

6月22日第670回例会(学習院大学会場)田中智子氏の研究発表【プログラムノート】

<第670回例会>【プログラムノート】
*日   時:2024年6月22日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:学習院大学北一号館2階教育学科模擬授業教室
*プログラム:占領期における大学学生自治組織の成立過程およびその活動
                           田中 智子  氏
                   司  会  上田 誠二  氏

【プログラムノート】
 大学における学生自治組織は、政府・占領軍の民主化政策や学生たちの学園民主化運動の影響を受け、敗戦から数年の間に多くの高等教育機関において設立された。学生自治組織とは、当該大学の全学生をもって組織され、学内における学生たちの意思決定機関であるのみならず、学内外における学生運動の拠点でもあった組織のことである。学生自治組織は60年安保紛争や大学紛争など戦後の学生運動をリードし、特に大学紛争においては学生の自治権や学部の教育改革を大学側に認めさせる等、大学史上においても重要な存在である。
 しかしながら、その発足に至る背景や過程については未だ解明されていない部分が多い。戦後の学生自治組織の歴史についての先行研究としては、①各大学の沿革史、②戦後学生運動史研究があげられる。①については多くの場合、戦後の組織再編、あるいは学生の歴史として概略が述べられている程度である。②については1970年前後の大学紛争期に書かれたものが多く、全日本学生自治会総連合(全学連)など学生自治会連合組織の歴史が中心であり、学生自治組織の結成についてはその前史としてわずかに述べられているにすぎない。それら先行研究における初期の学生自治組織の評価としては、所謂「ポツダム自治会」とみる(敗戦直後に政府・占領軍の指導によって設立されたと揶揄する)もの、あるいは戦後復活した日本共産党の指導を受けて活動を行なっていたとするものも少なくない。
 しかし実際には、戦前期の自治活動・学生運動の影響や、戦後の民主化運動・占領政策、所謂「進歩的な」教職員の協力など、様々な要素が複合的に重なったことにより、戦後の数年間の間に全国的に学生自治組織が作られていったと考える。そこで本研究においては、大学学生自治組織成立に至る経緯および学生自治組織の初期の活動を、戦前期の学生自治の系譜、戦後の政府・占領軍の民主化政策、学園民主化運動、日本共産党および左翼学生団体の復活等、その背景にあると考えられる諸要素に言及しながら明らかにしていく。
本報告においては、前半では総論として明治期から第二次大戦後までの学生自治組織の系譜について、後半では各論として東京(帝国)大学・京都(帝国)大学・早稲田大学における戦後の学生自治組織の成立と初期の活動について述べていく。
                                       〔田中智子氏 記〕

5月25日第669回例会(学習院大学会場)三上敦史氏の研究発表【プログラムノート】

<第669回例会>【プログラムノート】
*日   時:2024年5月25日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
*会   場:学習院大学北一号館2階教育学科模擬授業教室
*プログラム: ☆「非正規の学び」から見た日本の中等教育史
             三上 敦史 氏
        司  会  大島 宏  氏

【プログラム・ノート】
私は日本の中等教育史を研究してきた。中等教育は日本の教育制度の勘どころだと思う。『学問のすゝめ』や学制布告書から連綿と続く全員が平等な(と考えられる)日本社会において、人材選抜・育成の中核を担うポジションが中等教育であるからだ。しかし、その重要性にも関わらず歴史研究はまだ緒に就いたばかりであり(例えば、中等教育史研究会の設立は1986年)、令和の就活生お気に入りのビジネス用語で言えば「ブルー・オーシャン」である。若い研究者の続行が期待される。
これまでの私の研究対象は、近代の夜間中学、鉄道教習所、逓信講習所、各種検定試験、受験・修養雑誌、また戦後の大学別模試・通信添削等を実施した学生団体、河合塾を始めとする全国型予備校。これらは正規の中等教育機関ではないが、それと密接な(事例によっては骨絡みの)関係を持って中等教育を成り立たしめてきた存在である。私は「非正規の学び」と呼んでいる。これを補助線として引くと、日本の中等教育史は従来とは違った見え方になる。
例えば、一般に日本の教育制度は近代が複線型、戦後は単線型といわれる。しかし「非正規の学び」から見れば、①1903年「専門学校入学者検定規程」までは(一応)複線型の構築期で、②それ以降は事実上の男女別単線型へ徐々に移行、③既に完成していた男女別単線型から性差も撤廃したのが戦後学制改革であるが、副作用で柔軟性を喪失、④1961年「学校教育法等一部改正」(技能連携制度を創設)以降は徐々に柔軟性を回復していく時期と映る。
また、同様に戦後の高等学校と大学入試との関係を見れば、①1970年頃までは学力も(例えば芸術・体育のように)努力によって磨き上げる才能のように目される中、学生団体が情報の橋渡しをすることで大学と高等学校・予備校(および受験者)を繋いだ時期、②そこから2000年代頃までは(狭義の)学力と受験学力が分けて考えられるようになり、後者については知識を欠落のないように組み上げる技術のように目される中、全国型予備校が発信する受験テクニックと偏差値ランキングが大学と高等学校・中小予備校(および受験者)を繋いだ時期と映る。
今回はこうした点について報告する。ご参加の会員諸賢には「非正規の学び」という補助線の有効性についてご批正を賜りたい。 
                 〔三上敦史氏 記〕

3月23日第668回例会(学習院大学会場)青柳翔也氏の研究発表【プログラムノート】

3月23日第668回例会(学習院大学会場)青柳翔也氏の研究発表【プログラムノート】
 <第668回例会>
日 時:2024年3月23日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
会 場:学習院大学北1号館2階教育学科模擬授業教室
プログラム: ☆1880-90年代における唱歌(音楽)科中等教員養成の模索
                               青柳 翔也 氏
                    司  会   上田 誠二 氏

【プログラム・ノート】
 戦前日本の師範学校・中学校・高等女学校教員(以下、中等教員)養成について船寄俊雄は、高等師範学校・文理科大学に生じた帝国大学/アカデミズムへの「羨望と競争の意識」を批判的に分析・考察し、今も続く「大学や教育学部の内なるアカデミズム志向、教員養成重荷論を克服」する必要を提起した(『近代日本中等教員養成論争史論――「大学における教員養成」原則の歴史的研究』、学文社、1998年)。しかしこの指摘は、帝国大学に相当する学部・学科が存在しなかった学科目、とりわけ近代的学問システムの基底をなす論文業績主義の適用が今なお保留されている芸術・体育等の分野に対し、直ちには当てはまらない。帝国大学による学校支配がもたらした教員養成の可能性や隘路は、その背景をなすアカデミズムの歴史性を踏まえ考察する必要があるといえ、そのさい帝国大学/アカデミズムに占める位置をもたなかった分野は重要な検討対象となりうる。こうした課題意識のもとに報告者は、帝国大学による学校支配が確立した1900年代以後における音楽科中等教員養成の展開について、音楽専門家養成との歴史的関係を踏まえた検討・考察を行なってきた。
では、1900年代以前はどうだったのか。周知の通り、近代日本の学校教育において唱歌科は「当分之ヲ欠ク」という但し書きとともに制度化され、1879年に文部省内に設置された音楽取調掛がその実施を主導した。同掛による教員養成については、その可否をめぐって文部省内に意見の対立が生じていたことが指摘されてきたが、1887年に同掛が(旧)東京音楽学校へと改組され中等教員を養成する機能が与えられたのちも、同校出身者の教員社会への進出が必ずしも順調に進まなかったことは知られていない。加えて、同校の音楽科中等教員養成は音楽専門家養成と事実上未分化であり、その役割も唱歌の普及という初等教育上の課題と不可分だった。このことは、1900年代以後の音楽科中等教員養成の展開を意味づけるうえで、重要な論点をなすと考える。
本報告では、上記の課題意識を交えつつ、1880-90年代における唱歌(音楽)科中等教員養成の展開を整理・検討する。そのさい具体的には、音楽科を専門的に教授する教員の制度的地位と、その普通教育上の役割をめぐる議論に着目し、模索段階における唱歌(音楽)科中等教員養成のありように考察を加える予定である。
                                                                                               〔青柳翔也氏 記〕