日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

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活動

3月23日第668回例会(学習院大学会場)青柳翔也氏の研究発表【プログラムノート】

3月23日第668回例会(学習院大学会場)青柳翔也氏の研究発表【プログラムノート】
 <第668回例会>
日 時:2024年3月23日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
会 場:学習院大学北1号館2階教育学科模擬授業教室
プログラム: ☆1880-90年代における唱歌(音楽)科中等教員養成の模索
                               青柳 翔也 氏
                    司  会   上田 誠二 氏

【プログラム・ノート】
 戦前日本の師範学校・中学校・高等女学校教員(以下、中等教員)養成について船寄俊雄は、高等師範学校・文理科大学に生じた帝国大学/アカデミズムへの「羨望と競争の意識」を批判的に分析・考察し、今も続く「大学や教育学部の内なるアカデミズム志向、教員養成重荷論を克服」する必要を提起した(『近代日本中等教員養成論争史論――「大学における教員養成」原則の歴史的研究』、学文社、1998年)。しかしこの指摘は、帝国大学に相当する学部・学科が存在しなかった学科目、とりわけ近代的学問システムの基底をなす論文業績主義の適用が今なお保留されている芸術・体育等の分野に対し、直ちには当てはまらない。帝国大学による学校支配がもたらした教員養成の可能性や隘路は、その背景をなすアカデミズムの歴史性を踏まえ考察する必要があるといえ、そのさい帝国大学/アカデミズムに占める位置をもたなかった分野は重要な検討対象となりうる。こうした課題意識のもとに報告者は、帝国大学による学校支配が確立した1900年代以後における音楽科中等教員養成の展開について、音楽専門家養成との歴史的関係を踏まえた検討・考察を行なってきた。
では、1900年代以前はどうだったのか。周知の通り、近代日本の学校教育において唱歌科は「当分之ヲ欠ク」という但し書きとともに制度化され、1879年に文部省内に設置された音楽取調掛がその実施を主導した。同掛による教員養成については、その可否をめぐって文部省内に意見の対立が生じていたことが指摘されてきたが、1887年に同掛が(旧)東京音楽学校へと改組され中等教員を養成する機能が与えられたのちも、同校出身者の教員社会への進出が必ずしも順調に進まなかったことは知られていない。加えて、同校の音楽科中等教員養成は音楽専門家養成と事実上未分化であり、その役割も唱歌の普及という初等教育上の課題と不可分だった。このことは、1900年代以後の音楽科中等教員養成の展開を意味づけるうえで、重要な論点をなすと考える。
本報告では、上記の課題意識を交えつつ、1880-90年代における唱歌(音楽)科中等教員養成の展開を整理・検討する。そのさい具体的には、音楽科を専門的に教授する教員の制度的地位と、その普通教育上の役割をめぐる議論に着目し、模索段階における唱歌(音楽)科中等教員養成のありように考察を加える予定である。
                                                                                               〔青柳翔也氏 記〕

2月24日第667回例会(オンライン実施)榎本恵理氏の研究発表【プログラムノート】

<第667回例会>
日 時:2024年2月24日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
参加事前登録の締め切り:2024年2月21日(水曜日)  午後11時59分
プログラム: ☆本居宣長から教育を考える―声・文字・和歌―
                                 榎本 恵理 氏
                     司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
 「人はいかに他者とつながりあえるのか」、これが報告者の初めの「問い」である。その「答え」を求めて、江戸期の国学者本居宣長(1730‐1801)の思想の森に分け入った。2011年に書き上げた学位論文によって、その答えらしきものを見出すことができた。そのキーワードは、「メディアとしての和歌」である。生涯1万首を越える和歌を詠んだとされる宣長にとって、和歌を詠むとは何を意味していたのだろうか。詠歌は、独り己のうちにこもって作る今の短歌と異なり、あくまで一定の仲間や誰かに向かって、声に出して詠みだす行為である。他者の共感を惹き出す和歌こそ、宣長が目指したところであった。人の感性に依拠する「物のあはれ」論はその端的な表現である。和歌は「他者と己をつなぐメディア」だとみることができる。そこでは「文字」ではなく「声」が肝要となる。声を発する「身体」(己)の心が、場を同じくする受け手の感覚器官(目や耳)を通して届くからこそ、リアリティある共感が生まれ、他者とつながることができる。「声」が言語の本体というのは、宣長の譲れない主張であった。
 この和歌論による宣長の思想は、儒学・漢学に対抗的に生み出された。中国古典漢籍の解釈を事とする儒学は、「文字」(漢文)に基づく規範の学(漢意/からごころ)である。世の学者たちは漢文で思考し道徳を語る。その結果、人の真情を覆い隠してしまった。それを「漢字の害」と宣長はいう。漢字のメディアが人の心まで変えたと宣長は認識していた。文字のメディアに対抗して、「声」=身体性の復権をめざしたのが宣長の学であった。声で語られた『古事記』を注釈した彼の『古事記伝』は、文字以前(「漢意」に染まる以前)の、「正しい声の日本語」の復元作業であった。
 文字以前の言葉といえば、幼児の言語世界にほかならない。その後、このことに気づいた。宣長思想の基礎研究を、幼児教育のうちにいかに展開するか、それが学位論文以後の研究主題となった。声と身体の活動を通して、子どもの身心の発達や社会情動能力を高める可能性を論じることができるようになった。その成果の一端を「第二部」とし、先の学位論文の「第一部」と併せて、2023年3月に単著『本居宣長から教育を考える―声・文字・和歌―』(ぺりかん社)が刊行できた。
本報告では、二つの歌会に注目する。宣長は、『古事記伝』完成を機に、『古事記』中の神や人を詠み込んだ歌を門人たちに求め、「終業慶賀の歌会」を催した。また残された「遺言書」に、己の命日に歌会開催を求め、その手順まで詳細に指示した。この二つの奇妙な歌会、それに宣長が込めた意図は何だったのか。宣長が和歌に込めた意味を読み解きながら、この問題を考えてみたい。
                                 〔榎本恵理氏 記〕

1月27日第666回例会(学習院大学会場)近藤健一郎氏の研究発表【プログラムノート】

<第666回例会>
日 時:2024年1月27日(土曜日)  午後3時~5時 (対面で実施)
会 場:学習院大学北1号館2階教育学科模擬授業教室
プログラム:
 「琉球政府期の沖縄における文部省派遣教育指導委員をめぐって」
                                近藤 健一郎氏
                     司  会   上田 誠二 氏

【プログラム・ノート】
 ここ数年報告者は、アメリカ統治下にあった沖縄に対して、1959年以降文部省が派遣した教育指導委員に注目して調査研究を行なっている。例会当日は、報告者がこの間行なってきた教育指導委員をめぐる調査研究の現状と今後の課題を報告したい。
 報告者は「方言札」に注目しながら近代沖縄における標準語の普及にかかわる政策と実態について調査研究を進めてきた(「方言札の広がりととまどい―『普通語ノ励行方法答申書』(1915年)を中心に」、法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』第44号、2017年など)。そして沖縄戦後にも、標準語励行そして「不正語矯正」などの琉球諸語(沖縄方言)の抑圧は継続していたのであり、近代沖縄にとどまらず、沖縄戦後も対象時期とすることばの教育史を描かなければならないと、報告者は考えている。教育指導委員をめぐる調査研究も、報告者にとってはこの一環に位置づいている
 そのような考えは、関連する研究状況と史料状況によっている。沖縄戦後の標準語教育に言及した代表的なものである小熊英二「1960年の方言札」(小熊『「日本人」の境界』新曜社、1998年)において彼自身が注記しているように、沖縄教職員会に注目し、主に同会の史料(教研集会報告書等)によって叙述されている。沖縄戦後史の焦点は、復帰運動と施政権返還の実現にあり、前者の中心には沖縄教職員会があったから、この注目は有効なものではある。しかしながら、沖縄での教育の展開を明らかにしようとするとき、日本本土の日本教職員組合と文部省(あるいは自民党)ほどではないにしても、沖縄においても沖縄教職員会と琉球政府文教局の対立がみられたことは注目しておかなくてはならない。図式的に整理すれば、日教組と強いつながりをもつ沖縄教職員会のみに注目することでよいのだろうか。
 そして報告者は、沖縄教職員会の前身といえる諸団体の初期の機関誌や、琉球政府文教局が刊行し続けていた広報誌『文教時報』の復刻版の編集を、藤澤健一氏(福岡県立大学)とともに行なっていたから、史料的にも琉球政府文教局さらには文部省に注目することもできるのではないかという見通しも持ち得ていた。
 本報告では、日本本土の教育課程や教育実践が沖縄にもたらされる一つの経路となった文部省派遣教育指導委員をめぐって、次のような構成で報告を行なう。
1、文部省による教育指導委員派遣はどのようにして始まり、続いたのか
2、教育指導委員はどのようにして選ばれたか
3、教育指導委員は沖縄においてどのような指導を行なったのか
4、報告者にとってのこれからの課題
                             〔近藤健一郎氏 記〕

12月23日第665回例会(オンライン実施)山崎奈々絵氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第665回例会>
*日 時:2023年12月23日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2023年12月20日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆:戦後初期の義務教育教員養成における教育実習
                              山崎奈々絵 氏
                    司  会  須田 将司 氏

【プログラム・ノート】
 報告者は戦後教員養成に関心を持ってきたが、とくに近年は、戦後初期の教育実習についての研究を進めてきた。
 戦後教員養成改革は、視野が狭い、教え方や人間性において型にはまっている、学力が低い、視野が狭い、国家権力に従順で統制されやすいといった多様であいまいな意味を持ってきた師範型を克服することが課題であった。こうした課題のもと、やり方によっては教え方の型にはめる役割を大いに担いやすい教育実習をいかに改革するかは重要だった。教育実習は、ほぼ唯一、学校の実際から学ぶ科目であったため、実習を通して学ぶ実際と他の科目を通して学ぶ理論をどのように関連づけていくか、教職専門教育の中にどう位置づけるか、養成教育全体にどう位置づけるかなどをめぐり、再検討を迫られた。そもそも教育実習は、大学の科目であるにもかかわらず、大学の外にある実習校に内容や評価の多くを依存せざるを得ないため、たとえば実習校の負担をどう捉えるか、実習生の中には教職に就職しない者もいるという現実をどのように捉えるか、実習を通して何を学ぶかといったことをめぐり、大学側の論理とは異なる論理が強調され、看過できない場合も多い。
 教員養成は、大学、実習校、行政、国家など、多様なアクターが絡み合う構造的特質を持つが、教育実習はそれが顕著である。多様なアクターが絡まり合う中で教育実習のあり方が決まっていくプロセスやそこでの課題などを時代状況に即して明らかにしていくことは、教育実習だけでなく教員養成全体の実態や到達点、課題を時代ごとに整理していくことにつながるのではないか。
 先行研究を見ると、教育実習については概説的なもの、教職専門教育に関する研究の中で言及されてきたもの、少数の事例研究などに限定されており、十分な蓄積がされていない。これに対し、報告者は2021年の論稿で、多様なアクターに着目した研究や具体的な事例研究、実習校(大学附属も含んで)の実際に着目した研究、戦後から現在までキーワードとして繰り返し浮上している「観察・参加・実習」の詳細や実際に着目した研究などを今後進展させて必要があるのではないかと述べた。こうした課題意識のもとで近年進めてきた報告者の研究について報告をしてみたい。
                               〔山崎奈々絵氏 記〕

11月25日第664回例会(オンライン実施)宮里崇生氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第664回例会>
*日 時:2023年11月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2023年11月22日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆:占領初期沖縄教育の基盤の形成過程について――志喜屋孝信の教育思想に着目して――
                        宮里 崇生 氏
                  司  会   小野 雅章 氏
【プログラム・ノート】
本発表の目的は、戦前から占領初期まで一貫して沖縄教育界で指導的立場にいた志喜屋孝信に焦点を当て、志喜屋の公私における主張からその教育構想を捉え、占領初期沖縄における教育方針の内実を明らかにすることにある。
先行研究では占領初期沖縄の教育方針について、1946(昭和 21)年沖縄文教局が示した『初等学校教科書編纂方針』、とりわけ文書中の「沖縄の道」に焦点を当てた分析がなされている。「沖縄の道(新沖縄建設の精神)」に言及 している研究として、森田俊男(1966)、百次智仁(2014)、萩原真美(2021)がある。特に、最新の研究成果である萩原真美『占領下沖縄の学校教育―沖縄の社会科成立過程にみる教育制度・教科書・教育課程―』(六花出版)は「沖縄の道」について、米軍側の「本土と沖縄の切り離し」という目的を、沖縄側が「沖縄(略)固有の歴史を尊重すること」と捉えなおし、「従来とは異なる新たな沖縄を建設」するという意味へ「置き換え」たのではないか、と指摘する。「沖縄の道」について、沖縄側の主体性に着目した重要な研究であり、筆者も萩原(2021)の指摘に同意するが、史料的限界もあって推測の域を出ていないといえる。
これに対して本発表では、当該期沖縄における復興事業全体の指導的立場にいた志喜屋孝信に着目し、その公私における主張から教育構想を捉えることで、占領初期沖縄の教育方針の内実を明らかにする。換言すれば志喜屋の主張から、従来の占領者対被占領者という追従の図式では見えづらかった、教育方針の形成過程及び具体的内容について動態的に明らかにしていきたい。
志喜屋孝信は、1884(明治17)年中頭郡具志川間切(現うるま市)に生まれ、沖縄県立第一中学校、広島高等師範学校を卒業ののち、県外にて中学校教員となる。1911(明治44)年に沖縄県立第二中学校に転任し、1924(大正13)年には同校校長に、1936(昭和11)年には私立開南中学校を設立し、同校の校長となっている。そして1945(昭和20)年には米軍による要請によって沖縄側行政代表者となり、1950(昭和25)年に退任するが、同年に琉球大学初代学長に就任している。このように志喜屋孝信は、戦前期は県内随一の教育指導者であり、占領初期は復興事業全体の指導者であった。これまで同氏の評価は、専ら占領初期の行政指導者としての側面に偏り、またその際も米軍政府に追従した「御しやすい人物」とされている。しかし私的主張を見れば、葛藤や妥協、計画的な公私の使い分けが読み取れる。
本発表では、まず志喜屋孝信の教育構想について『志喜屋孝信関連文書群』を主として当該期の新聞及び回顧録等から捉え、沖縄指導者がどのように敗戦を経験し、占領者と対峙し、葛藤や対立、妥協や協調を経て復興に従事していったのかを明らかにする。その上で占領期沖縄の教育方針の形成過程とその具体的内容を明らかにする。
当日は、補助資料として『志喜屋孝信関連文書群』調査報告書を配布させて頂く。会員の方々には、同書についても併せてご検討して頂ければ幸いである。
                〔宮里崇生氏 記〕

10月28日第663回例会(オンライン実施)小野雅章氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第663回例会>
*日 時:2023年10月28日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2023年10月25日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
近現代天皇制と学校儀式の関係史概観――学校儀式の戦前・戦後――
    小野 雅章 氏
司  会  高橋 陽一 氏

【プログラム・ノート】
 本発表の目的は、報告者が本年4月に公刊した『教育勅語と御真影――近代天皇制と教育』(講談社現代新書、2023年)により得た成果と残された課題とを整理して、今後の報告者自身の研究の方向性一端を示すことにある。『教育勅語と御真影――近代天皇制と教育』では、幕末維新期から現代まで、天皇・天皇制を軸にして、この国の教育の史的展開の通史的展望を試みたが、史料の発掘を含めて精緻に論証するには至っていない点もある。なかでも、学校儀式を中心とする学校行事の通史的な分析はこれからの課題になっている。
 近代学校制度成立以降、少なくとも教育勅語発布頃までは、学校儀式は天皇・天皇制教化のためだけのものではなく、それぞれに別途の目的があった。ところが、教育勅語発布以降、祝日大祭日儀式が法令によりその実施が制度化し、1900年の小学校令施行規則第28条により、三大節学校儀式が定型化されると、それ以外の学校儀式、すなわち、卒業式、入学式、始業式、終業式等の次第もこれに準じるものへと再編成された。
本発表では、上述の内容を確認したうえで、1900年代以降の主として小学校レベルの学校における天皇・天皇制教化のための学校儀式を中心とする学校行事が、それぞれの時代の要請による教育状況の変化に対応して、どの世のように変化したのか、この点について、学校儀式の「道具立て」としての教育勅語他教育関係詔勅、御真影、国旗、国歌ほか儀式用唱歌などの取り扱いなどを視野に入れつつ、これから進めようとする研究の展望を示したい。多くの方からの有益な批判を期待している。
 基本文献や基本史料を検討している段階ではあるが、戦時体制下の学校を「場」とする天皇・天皇制教化の方式は、1920年代の教化総動員運動を下敷きしつつ、1930年代の国民精神総動員運動として、天皇信仰を強く強制するようになり、学校行事もその方向で改編されたとの仮説を持っている。当日は、戦後の学校行事に関しても論究できたらと思っている。
              〔小野雅章氏  記〕

7月22日第662回例会(オンライン実施)松尾由希子氏・山下廉太郎氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第662回例会>
*日 時:2023年7月22日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム:
 ☆「教育令期」における小学校教員のキャリア―長崎県の「履歴史料」より
               松尾由希子 氏  山下廉太郎 氏
        司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
 近年期待される教員の資質能力のキーワードの1つとして、「学び続ける教員」があげられる。例えば中央教育審議会答申では、「教員が高度専門職業人として認識されるために、学び続ける教員像の確立が強く求められる」(2015年12月)、「令和の日本型学校教育」を担う教員として「教職生涯を通じて学びつづける」点(2022年12月)が示された。今回の報告は、明治期において教員制度の整備が進んだ時期といわれる「教育令期」の小学校教員の教職キャリア、具体的には任用時、任用以後の学習履歴及び職務歴の特徴について、長崎県小学校教員の「履歴史料」を用いて報告する。教員として任用される前後の学問的な研鑽、転退職にともなう職業的な経験の蓄積をキャリア形成ととらえて報告する。主な構成は以下のとおり。1「履歴史料」の特徴、2小学校男性教員の教職キャリア、3小学校女性教員のキャリア(任用時)
 明治期の教員のキャリア形成に関わる研究は、主に教育制度史の領域で教員資格に着目して進められてきた。ただし、制度の体系は必ずしも実態を反映しないため、教員のキャリア形成は制度と実態の双方から検討する必要がある。また、教員のキャリア形成について、実証的な研究が存在するものの、そのほとんどが任用までに求められたキャリアの解明にとどまっている。これまでの研究は終身雇用を前提とした単線型・職域内のキャリアパスを想定していたためだろう。本報告では、教員が転退職を繰り返しながらキャリア形成をしていく実態も示したい。さらに、本報告ではこれまでほとんどとりあげられてこなかった女性教員のキャリアにも着目する。文部省は女児の就学率向上のために女性教員が必要であると考えていたが、女性蔑視や女性教員に対する厳しい評価もあったためか、教員不足は解消しなかった。そのような中、どのようなキャリアを有する女性が小学校教員になるのか。男性教員のキャリアとも比較しながら、少ない事例になるが特徴を示す。
 本報告は「履歴史料」を用いた研究になる。「履歴史料」とは、「当時の学業、賞罰等の経歴及び出自について公的に記録・証明する文書」(池田雅則、松尾、山下2016)である。今回の報告では「履歴史料」の中でも、履歴書と辞職願をとりあげる。報告者は「履歴史料」の可能性や効果的な活用について検討、模索しているため、当日は詳細に史料を提示しながら報告したい。(松尾由希子記)
         〔松尾由希子氏・山下廉太郎氏 記〕

6月24日第661回例会(オンライン実施)軽部勝一郎氏の研究発表【プログラムノート】

<第661回例会>
*日 時:2023年6月24日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム:
☆1880年代の徳島県にみる中学校の形成過程と就学の動向
                           軽部勝一郎 氏
                司  会  須田 将司 氏

【プログラム・ノート】
 本発表は、1880年代の徳島県における中学校の形成過程に焦点を当て、中学校の形成が人々の就学行動に与えた影響を検討しようとするものである。
 本発表で取り上げる徳島県は、その県域が旧徳島藩領にあたり、1870年代から80年代にかけての中学校形成も、旧徳島藩の教学の影響下に進められた。中学校の展開が、旧藩庁所在地の徳島のほか、旧藩以来の拠点である、脇、富岡、川島にみられたことがそのことを物語る。
 一方で、藍の生産に代表されるように活発な経済活動を展開する商人たちの動向も、中学校の形成過程を考えるうえでは看過できない。とりわけ郡部の中学校を維持するうえで商人たちの経済的援助は欠かせないものであり、彼らの動向が徳島県における中学校形成の方向性を形作ったともいえる。また、徳島女学校が1880年代を通して維持されたことも、女子教育への彼らの関心が少なからず影響していた。藩政期以来の士族層と商人層の「つかず離れず」の関係性を読み解くことが、この地の中学校形成過程を明らかにする鍵ともいえる。
 このような視点に立って、中学校の形成が人々の就学行動に与えた影響を検討していきたい。本発表は『明治前期中学校形成史府県別編Ⅴ南畿南海』所収の拙稿をもとに行うが、徳島女学校が県内の小学生を対象に行った技芸作品のコンクールである「奨芸会」にかかわる『普通新聞』の記事や、富岡や脇の中学校にかかわる史料を新たに用いることで、「就学」に対する人々の意識を醸成する要素の1つとして、中学校の形成という事象が存在したことを指摘できればと考えている。
 これまで発表者は、自由民権期に小学校設立にかかわった人々や、第一次小学校令期に小学簡易科を設置、維持した人々に焦点を当て、前近代から近代への転換期における民衆の教育要求の本質を明らかにする作業を試みてきた。それはいわば初等教育を指標に民衆の教育要求を検討する作業であった。前任地熊本にいる折に、神辺靖光氏が進めてこられた中学校形成史研究に参加する機会を得て、中等教育を指標として転換期の教育の実相を探ることの重要性を新たに知ることになり、昨年公刊された『明治前期中学校形成史府県別編Ⅴ南畿南海』の執筆を通して、こうした問題意識をさらに強く抱くことになった。本発表を機に、転換期に生きる人々の「就学」に対する意識を、初等教育に加えて、新たに中等教育を指標として明らかにする作業に取り組んでいきたいと考えている。              
             〔軽部勝一郎氏  記〕

5月27日第660回例会(オンライン実施)山口刀也氏の研究発表【プログラムノート】

5月27日第660回例会(オンライン実施)山口刀也氏の研究発表【プログラムノート】
<第660回例会>
*日 時:2023年5月27日(土曜日)  午後3時~5時(オンラインで実施)
*プログラム:
 ☆朝鮮戦争期岩国における「山口日記事件」(1953年6月)までの道のり
          山口 刀也 氏
   司  会   上田 誠二 氏

【プログラム・ノート】
 軍事基地が子どもの成長はもとより、その基盤となる生活、ひいては生命そのものまでをも深く脅かす時、学校教育やその働き手である教師には何がなし得るのか。基地問題は国家安全保障をめぐる政治の主題であるとともに、軍事環境問題や性暴力、就業形態や産業形態の変容などをはじめとする負担、被害を強いられる地域においては住民の安全やみずからの自治をめぐる政治の主題でもある。こうして基地問題はその影響から子どもを守ろうとする教師に対してその役割を問うとともに、福祉や政治などの営みとの関わりにおいて「教育」の範疇を問い直す。
 報告者は朝鮮戦争期の山口県岩国市の教育をめぐる状況に焦点を当て、基地問題が深刻化するなかでの教育のあり方を調べてきた。これまでは主に公立小中学校の教師の多様な取り組みと役割に光を当てようとしてきた。対して、この度の報告では岩国の教師を取り巻き、それぞれの模索に閉塞を迫ったと考えられる事態に注目したい。
 その事態は、「山口日記帳事件」(1953年6月)と呼ばれている。当時、山口県教職員組合は教職員組合のなかでも急進的な単組のひとつとして知られていた。その山口県教組が自主編集した副教材「小学生日記」「中学生日記」(1953年4月)中のコラム欄が「偏向」しているとして岩国において問題視されたのである。通説では、対応をめぐって顕在化した山口県教育委員会と山口県教組の対立を収束させるためにも文部省や日教組が事件に関わったことから、教育と政治の関係に関する議論が広く喚起され、教育の「政治的中立」を掲げるいわゆる「教育二法」の制定を招来するきっかけになった、と位置づけられてきた。教育をめぐる保革対立の激化という1950年代を特徴づける現象の端緒のひとつというわけである。
 こうした見解を踏まえつつ、そもそもなぜ山口県教組が県下に配布した副教材が岩国を舞台にして政治問題化したのだろうか。その背景としては、山口県レベルでの教育委員会と教職員組合の対立関係とともに、岩国での反基地拡張・土地接収運動における教師の役割が指摘されてきた。双方は副教材を介してどのような関連を結んでいるのか。報告では、岩国の教育と基地をめぐる状況を軸に据え、教師たちを取り巻いた多様かつ重層的な関係性をときほぐしながら、山口日記事件が生じた仕組み、その発生経緯を考えてみたい。
  〔山口刀也氏 記〕

3月25日第659回例会(オンライン実施)吉川卓治氏の研究発表 【プログラムノート】

3月25日第659回例会(オンライン実施)吉川卓治氏の研究発表 【プログラムノート】

 <第659回例会>
*日 時:2023年3月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム:
 ☆専門学校令と私立医学校
         吉川 卓治 氏
   司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
専門学校令は1903年3月26日に公布された(勅令第61号)。その第一条で「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス/専門学校ハ特別ノ規定アル場合ヲ除クノ外本令ノ規定ニ依ルヘシ」と規定された。こうした「専門学校」の定義の仕方は他の学校令とは異なっていて、高等の学術技芸を教授する学校であれば、強制的に専門学校令に依拠させることになっていたと解されている(『現代教育史事典』)。最大手の医術開業試験の受験予備校で、野口英世や吉岡弥生が学んだことでも知られる私立済生学舎が専門学校令の公布直後に廃校となったこともしばしば併せて指摘されてきた。
専門学校令の成立過程やそれが私立学校に与えた影響などについては、倉澤剛や天野郁夫をはじめ多くの研究者が検討を重ねてきた。本報告は、これらの研究成果に学びながら、専門学校令がなぜ先述のような強制性を付与され、そのことはどのような事態をもたしたのか、ということを私立医学校との関係という視角から再検討しようとするものである。
予定している内容は以下のとおり。
第一に専門学校令の成立過程を改めて検討する。先行研究でその発端と指摘されてきた桂内閣での行政整理に加え、医師数の推移や医術開業試験の内務省から文部省への移管などを背景として押さえる。第二に専門学校令公布後の私立医学校の動向を明らかにする。これまで済生学舎が注目されてきたが、ここではそれ以外の私立医学校の動きに注目したい。そして第三に、専門学校令の厳格な適用を目指した文部省が方針転換を余儀なくされていたことを示したい。このことはこれまでほとんど見過ごされてきたのではないかと思われるが、専門学校令を評価する際には重要なポイントだと考えている。参加者のみなさんから多くのアドバイスをいただければ幸いです。
   〔吉川 卓治氏 記〕