12月21日第674回例会(日本女子大学会場)鈴木敦史氏の研究発表【プログラム・ノート】
<第674回例会>
*日 時:2024年12月21日(土曜日) 午後3時~5時 (対面で実施)
*会 場:日本女子大学 目白キャンパス 百二十年館3階 現代社会学科 実習室
*プログラム:明治十四年の地方巡幸における山形県での学校、生徒の対応
―『山形新聞』の記事に着目にして―
鈴木 敦史 氏
司 会 大島 宏 氏
【プログラム・ノート】
本報告は、明治十四年の地方巡幸での地域の学校や子どもたちの対応を、山形県を事例に検討するものである。
明治期の地方巡幸は、明治維新後の近代国家形成期において新たな統治者としての明治天皇が、その近代的君主像を全国に広めるために行った「プロパガンダ」「ペイジェント」とされる。また教育史研究においても、後に御真影が各地の学校に「下賜」され拝礼が儀式化される以前の、実物の天皇が初めて人々の眼に触れた機会として位置づけられる。
山形県への巡幸は明治十四年に実施され県内では天皇を迎える準備が進められたが、そこには明治7年に旧酒田県令に着任し、明治9年に成立した新制山形県ではその初代県令に就いた三島通庸の強い政治的リーダーシップがあった。
本報告では、こうした地方巡幸での地域の学校や子どもたちの対応を、その様子を報じた『山形新聞』の記事を参考に検討する。『山形新聞』は、国学者平田銕胤のもとに学んだ豪農の遠藤慎七郎とその弟の司が山形活版社を興し、明治9年9月1日に第1号が創刊された。明治十四年巡幸当時は、国会開設の機運が高まるなかで、同年10月に自由党が結成されると県内でも新聞の政党機関紙化が進み、『山形新聞』も自由党の機関紙として内務省へ届け出た。また当時は、讒謗律とともに新聞紙条例(共に1875年)が出されるなど、言論に対する厳しい統制が布かれた。新聞各紙は露骨な反政府的態度は抑えつつも政府に対する批判的立場は保持していくという難しい運営を強いられていた。
一方、山形への明治天皇の来訪を報じた当時の『山形新聞』の記事には、政治的党派性からは距離を置く、地域の実態を率直に伝えるものが少なくない。「土木県令」「鬼県令」として知られる三島通庸の山形での県政運営は、強権的で人々からの強い反発を招いた一方で、三島の進めた地域社会の近代化を評価する声は県内でも少なくなかった。地方巡幸での明治天皇の来訪を見越して進められた山形県内の近代化は、強権的な県政への不満と地域の開化への評価という三島県政に対する複雑な感情をもたらしながら進められたのであり、それが紙面にも表れたのだと考えられる。
山形県への巡幸が実施された当時は、後に文部大臣に就いた森有礼が天皇への「忠誠」や「愛国心」を学校教育において醸成を図る以前の、地域社会における天皇の位置づけがいまだ定着していない時期であり、故に新たな統治者である天皇への地域社会の人々の、より率直な対応が見られる場面でもあった。加えて、明治12年以降に「教学聖旨」をめぐり政府内で展開するヘゲモニー争いにより、学校教育の位置づけが宮中保守派と開明派との間で交錯する不安定期でもあった。本報告では、こうした当時の地域の学校や子どもたちの明治天皇への対応を検討することで、天皇の位置づけが教育制度のなかで位置づく以前の、地域における天皇像の一端を明らかにしてみたい。
〔鈴木敦史氏 記〕