日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

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活動

第644回例会(オンラインで実施) 柏木敦氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第644回例会>
*日 時:2021年7月24日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年7月21日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「小学校における就学の始期・終期弾力化の諸側面」
                                柏木 敦 氏
                     司  会   須田 将司 氏
【プログラム・ノート】
 1875(明治8)年文部省達第1号の学齢規定、そして1900(明治33)年第三次小学校令における学年の始期および終期の規定は、アジア・太平洋戦後の義務教育年限延長による学齢期間の見直しを除いて、原則として変更されることはなく今日に至っている。しかしながら実質的な制度変更は行われなかったものの、アジア・太平洋戦前期、就学の始期・終期を弾力化する二重学年制や学齢の見直しはしばしば検討されている。
 この点に早くから注目し、かつまとまった研究を行ったのは管見の限り渡部宗助であり、渡部『日本における二重学年制の導入・実施に関する歴史的研究』(平成九年度科研費報告書)は、関連する資料を広く収録し、渡部による論考も含まれたこの領域の基礎研究である。報告者は渡部の成果を起点に据えつつ、より踏み込んだ地域資料や制度政策関連史料を検討することよって、二重学年制や学齢の見直しに関する研究を進めている。
 これらいわば学校教育制度、特に初等教育制度の始期と終期との弾力化は、初等教育段階の早期入学・早期卒業、早期進学・早期就業、児童の多様な学習能力に対応することができるなど、その都度目指されたメリットが示されてきた。しかしながら学校教育制度の接続関係の確立、一年進級制の維持、制度変更による費用や教員配置の問題といった現実路線の前に、およそ表だった議論とはならなかった。また全国的な制度政策とは異なる範囲で、それなりに積極的な意図をもって二重学年制を導入した成城小学校や女子学習院においても短命に終わっている。
 とはいえ、日本の初等教育制度史上、それらの議論や試みが無意味であったとはいえない。繰り返し議論されたのは、学年制、学齢の弾力化が、近代学校教育制度の下での〝見果てぬ夢〟であったからということもできよう。であるとすれば、歴史的経験の中で、どのような必要があって学齢や学年の見直しが問題として提起され、またどのような理由からそれらが実現しなかったのか、何が見直しに優先されたか、といったことの検証を重ねる必要がある。
 報告者はこれまで1923(大正12)年から富山市で実施された秋季学年制の導入・廃止に至る経緯、秋季学年の進級状況や卒業者の就労状況、1914(大正3)年、教育調査会において検討された学齢規定の弾力化に関する議論を検討してきた。今回の報告では継続して収集している資料を紹介し、今後の研究展望を示したい。
              〔柏木敦氏 記〕

第643回例会(オンラインで実施) 大森直樹氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第643回例会>
*日 時:2021年6月26日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年6月23日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「1958年の教育課程に関わる政策の研究-保守政党の影響を中心に」
                                大森 直樹 氏
                     司  会   大戸 安弘 氏
【プログラム・ノート】
 日本の教育課程史の中で1958年のもつ意味は大きい。学教法施行規則の改正により、①教科と特別教育活動に、道徳と学校行事を加えた4領域の教育課程の編成が求められるようになり(小学校)、②最低授業時数を定めるようになった。あわせて、指導要領が告示の形式で出されて、③「教育課程の国家基準が明確にされた」とする解説が始まり、④36項目の道徳基準が国定され(同前)、⑤経験学習が系統学習に改められ、⑥祝日の儀式では国旗掲揚と君が代斉唱が望まれるようになった。戦後教育の通史的叙述においても、道徳特設(①)と指導要領告示化(③)については、必ずといっていいほど取り上げられている。
これらは何をもたらしたのか。山住正巳は、③により、指導要領の教科書にたいする拘束力が強化されたとしている(『日本教育小史』)。久保義三も、③により、「国家権力が教育内容に対して、積極的に介入する道が開かれた」と述べている(『昭和教育史』)。米田俊彦は、1950年代に「国の教育政策が政治一般と連動」するようになったことを前提に①③⑥に触れており、1956年の教委法廃止などの史実ともあわせて、「教育に関する合意形成のルールを模索することもなく、対立したまま多数の考え方で制度が構築され、その多くが現在まで機能している」ことを指摘している(『教育史』)。
本報告は、米田の指摘も手がかりにしながら、保守政党の教育課程のあり方への関与が、いつから、どのように進められたのかを明らかにしようとするものである。1950年代は、(1)占領軍が教育課程のあり方に大きな影響力を行使した時期が終わりを告げてから、(2)「自民党に教育政策をまともに論じ政策をリードしていく文教族が誕生」(小川正人『教育改革の行方』)する1960年代後半よりも前の時期に当たる。これまでの通史では、保守政党の教育課程への関与は、1952年12月の「党人文相」岡野清豪による教育課程審議会への諮問から、あるいは、1955年8月の日本民主党の『うれうべき教科書の問題』から、叙述されることが多かった。そのこともふまえて本報告では、1952年11月24日の吉田茂(首相・自由党総裁)を起点とした分析を行う。保守政党の教育政策の輪郭の形成という視点から、19度に及んだ吉田の衆議院における施政演説を概観したとき、同日の施政演説が注目されるからである。教育課程に関わる政策史の再整理により、今日における教育課程のあり方への理解の一助としたい。
              〔大森直樹氏 記〕

第642回例会 前田一男氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第642回例会>
*日 時:2021年5月22日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年5月19日(水曜日)  午後11時59分
*参加方法は、p.3「インターネット上での例会参加の事前登録について」をご覧ください。

*プログラム:
 ☆「教育史研究と教員養成教育との架橋」
                                前田 一男 氏
                     司  会   大戸 安弘 氏
【プログラム・ノート】
方法論を意識した学問研究と、教育現場に力量のある教師を送り出す教員養成とは、どのように「両立」するのであろうか。アカデミズムは学問の論理から教員養成政策への批判を繰り返し、教員養成政策は専門化・高度化を名目に養成カリキュラムへの要請を強めている。この不幸な関係は、近年ますます深刻になりつつあるように思える。教育学が教育実践を意識して実際的にならなければならないと主張されて久しく、一方声高に叫ばれる「実践的指導力」への政策が必ずしも功を奏しているとも思えないからである。双方が課題を抱えながら、それゆえその双方が納得して距離を縮め関係を改善していこうとする見通しも明るいものではない。現実的には免許法の改正に大学が追随させられている現状だけが浮かび上がってくる。
そもそも学問研究と教員養成とが「両立」するとは、どのような内実を指すのであろうか。教育史研究と教育史教育とは、最初から両立しえない課題に苦しんできたところはないであろうか。両立ではなく、それぞれの役割分担が有機的になされるとすれば、何が重要なポイントになるのであろうか。その結節点の論理はどこに求めなければならないのであろうか。これは何も教育史研究に限ったことではなく、教員養成にかかわる他の学問分野も同様の問題を抱えている。将来の教員たる資格を付与する国家的事業に、大学の教員としていかにかかわるのか、自らの専門分野を深めていく研究はその国家的事業にどのような関係に位置づいているのか。それが批判的な立場を内包するときに、それへの説明はいかになされるべきなのか。
学問研究(教育史研究)と教員養成(初等教育実践)との古くて新しい関係づくりの難題を、自らの大学教育実践を総括するひとつの事例として、いくつかの視点から考察しようとするのが、今回の報告の意図である。その視点としては、近年、教職課程における教育史の位置づけの軽視に対して、師範学校カリキュラムではむしろ重視されていた意味をどう考えるか、教育史学会が教員養成を話題にしたがらない事情とその背景にはどのような理由があり、そのことが結果する事態をいかに認識すべきか、自らの教育史実践を検証しながら、そこに教育史研究と教育史研究にかかわるどのような視点・論点が抽出できるのか、またその教育史実践をいかに評価することが妥当なのか。
報告者は、この古くて新しい難問とともに歩んできたことになる。報告者なりに大学教員としての教育実践を総括しなければならない時期に来ているとすれば、自己批判を含めて、その難問へのひとつの事例を紹介しておく義務があるのではないだろうか。
              〔前田一男氏 記〕

第641回例会(オンラインで実施):太郎良信氏の研究発表【プログラムノート】

第641回例会(オンラインで実施):太郎良信氏の研究発表【プログラムノート】
 <第641回例会>
日 時:2021年3月27日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
参加事前登録の締め切り:2021年3月24日(水曜日)  午後11時59分
プログラム:「木村文助研究―生活綴方教育史研究の課題に照らしつつ―」
研究発表者: 太郎良 信 氏
【プログラム・ノート】
1930年代における生活綴方教育史についての先行研究の再検討を意図しつつ、現在取り組んでいることについての報告となる。
1920年代の『赤い鳥』綴方を批判して生まれたとされる生活綴方が、調べる綴方、リアリズム綴方、生活教育への展開、表現技術教育の偏重、学級文化活動というように展開したととらえられてきたといえよう、こうした見方は、生活綴方に関係がありそうなことがらの推移としては一つの描き方となろうが、何をとらえて生活綴方というのかということ自体が問題となる。たとえば、調べる綴方は生活綴方といえるのか、リアリズム綴方は調べる綴方の反省に立つものなのか、北方性教育運動が生活綴方にもたらしたものは何だったのか、学級文集づくりが一時的に高揚して衰退したのは何故だったのかなど、検証すべきことは多い。
こうしたことを念頭におきつつ、今回は、従来『赤い鳥』綴方を代表するものであり、生活綴方に至るよりも前段階の人物として歴史的に位置づけられてきた木村文助(1882-1953)に即して報告する。
論点の一つは、1930年が画期となるか否かということである。波多野完治はそこに画期を認めず、それまでの「生活指導綴方」が調べる綴方として展開していったとみる。これに対して、木村は1930年に階級闘争が高揚してきて綴方にも社会的な関心が反映されるべき時期を迎えた(機械的なプロレタリア綴方を肯定するものではない)ということで画期とみたし、調べる綴方と「生活指導綴方」との連続性を認めてはいなかったということについてである。
もう一つは、生活教育の野村芳兵衛や北方性教育の村山俊太郎が、1836年に至って、1920年代以来の木村文助指導の綴方について意欲(モラル、モーラル)が含まれていることを評価していることについてである。ちなみに、木村の指導した綴方のうちでも代表的な高等科2年女子の「涙」に即して中内敏夫は「メソメソした、そうした意味で即自的なリアリズム作品」(中内敏夫『綴ると解くの弁証法』渓水社、2012年、p.115),「メソメソの生活と表現の論法」(同前書、p.121)として否定的な評価をくだしているものである。
ついでながら、先日、治安維持法違反として検挙された著名な生活綴方関係者に対する地裁の検事聴取書の写しの一部を古書店ルートで入手した。詳細な検討はこれからであるが、先行研究にとどまらず自らにおいても弾圧側の「論理」や「評価」を踏襲している面があるのではないか、共同研究で対処すべきものではないかと思案していることを記しておく。
   〔太郎良信氏 記〕

第640回例会(オンラインで実施):塩原佳典氏の研究発表【プログラムノート】

 <第640回例会>
日 時:2021年2月27日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
参加事前登録の締め切り:2021年2月24日(水曜日)  午後11時59分
プログラム:研究の経過と展望:「土地」に紐付く(囚われる?)歴史研究を顧みる」
研究発表者:塩原 佳典 氏
【プログラム・ノート】
昨春、第30回石川謙賞をありがたく頂戴した。自分には全く過分なことで、身が引き締まる思いである。日本教育史学会のみなさま、そしてこれまでご助言やご批判をくださったみなさまに、まずは御礼を申し上げたい。
本報告は、このたびの受賞にあたり、私のこれまでの研究と今後の展望について論じる機会を与えられたものである。
まずこれまでの研究として、以下の4テーマを紹介したい。
①幕末維新期の地域社会における教育近代化と名望家層の動向
②筑摩県にみる就学告諭の論理と実態:『説諭要略』(1874年)の捉え直し
③明治期の松本地方における公立病院・医学校史:医療環境をめぐる「公」の行方
④幕末維新期信州高島藩の学制改革:在村国学の地域社会史
次に現在取り組んでいる課題として、以下の4テーマを紹介したい。
①学校所蔵文書の研究:高島小学校にみる地域と学校の関係史
②筑摩県下博覧会の捉え直し:「附博覧会」をめぐる願出と許可
③幕末維新期の議事機関における「公議」の形成:松本藩の議事局から筑摩県の下問会議へ
④昭和初期農本主義教育運動の社会・思想史:和合恒男の「瑞穂精舎」
私はこれまで、信州をフィールドとした研究に取り組んできた(おそらくこれからも)。そこで最後のまとめにかえて、こうした「土地」に紐づく(囚われる?)研究を続けていくことについて、若干の考えを述べてみたい。
本報告のとりわけ後半では、つい最近勉強を始めたばかりで、論旨はもとより問いすらあいまいなテーマも少なくない。ひとまずの話題提供として、ご参加のみなさまからコメントをいただければと願っている。
 〔塩原佳典氏 記〕

2020年3月28日(土) 第640回例会:須田将司氏【プログラム・ノート】

日時:2020月3月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 地下1階 第2会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:大日本青少年団の錬成論―「共励切磋」の提唱と展開―
須田将司 氏(東洋大学)

【プログラム・ノート】
 1941年3月14日に文部省訓令第2号「大日本青少年団ニ関スル件」が発せられた。その第二条には「皇国ノ道ニ則リ男女青少年ニ対シ団体的実践鍛錬ヲ施シ共励切磋不抜ノ国民的性格ヲ錬成」との目的が掲げられた。それは、学校における「基礎的錬成」をベースに、青少年団の「団体的実践鍛錬」によって「共励切磋」を内面化した青少年の形成をめざす構想であった。なかでも「共励切磋」は大日本青少年団独特の用語として、先行研究(上平泰博)では学校教育の「同一年齢」に対し「異年齢の隊組織」を前提とする「別個の教育原理」と指摘されてきた。
 しかしながら、いかなる経緯で登場し、錬成の具体的イメージとして展開が図られたのか、未だ十分に捉えられていない。「共励切磋」が目指した錬成の姿とは、どのような独自性や限界があったのか。
 ヒントとなるのは、文部省訓令第2号の策定当初は「共励切磋」が無く、団体名も「大日本青年団」であったことである。これが「大日本青少年団」と修正されていく過程で、「共励切磋」も入り込んでいる。青年団を青少年団とすべきと修正意見を出したのは、1930年代に学校少年団の組織化を主導してきた帝国少年団協会であった。彼等の少年団論に「共励切磋」のルーツがあるのかどうか、精査が必要である。
 一方、1930年代に報徳教育から派生していった「学校常会」論が、大日本青少年団幹部層により「共励切磋」と重ねて論じられていった。
 これらを「共励切磋」の提唱と展開ともいえる動向を、1930年代の帝国少年団協会の刊行物、1940年代の大日本青少年団の機関誌類、さらには各地の実践報告類などを参照しながら照らし出すことを試みたい。
〔須田将司氏 記〕

2020年2月22日(土) 第639回例会:矢澤静二氏【プログラム・ノート】

日時:2020月2月22日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 2階 会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:『伊藤泰輔日記』が語る二・四(教員赤化)事件―長野県上伊那地域の事例にみる―
矢澤静二 氏(長野県伊那市近現代史講座講師)

【プログラム・ノート】
 二・四事件とは、昭和8年2月4日に始まり、治安維持法違反をもって長野県下の社会主義運動、労働運動、青年運動に対して実行された大検挙事件である。検挙取調者総数608名のうち教員が66校230名を占めたため、全国未曽有の”教員赤化事件”として喧伝された。この赤化事件について、『抵抗の歴史』で画期的に周知され、以後、新資料発掘と共に前田一男先生をはじめ優れた研究がなされ、昨年『長野県教員赤化事件―関連史料集』も発刊された。二・四事件の中心的当該者がその体験を基に著した記録著書等が重要資料として研究されてきた。しかし、地元新聞に「大検挙の中心地帯」と報道された上伊那地域でありながら、手がかりとする資料が極めて乏しかったことから調査研究はされて来なかった。近年、昭和6年~33年まで伊藤泰輔が克明に記した日記及び関連資料が発見された。上伊那の中心校伊那小学校長かつ二・四事件で検挙者を出した該当校校長であり、更に上伊那教育会の中枢的立場(副会長)にあり、信濃教育会評議員であった伊藤の遺した資料は、事件の展開に即応した学校現場の状況や苦悩が見て取れる非常に貴重なものである。『伊藤泰輔日記』を基に、地元新聞記事等で後付けをして、以下の点に重点を置いて発表させていただきたいと考えている。①二・四事件の発端となった上伊那地域の教育現場及び地域の当時の状況についてより具体的に検証する ②検挙者を出した当該校長の対応の様子やその苦悩を明らかにする ③二・四事件の拡大に伴う、地域議会や国会・県会での責任追及と対応について考える ④二・四事件関係者に対する処分及び復職の状況について問題点を明らかにする ⑤二・四事件と長野県・上伊那地域からの満蒙開拓青少年義勇軍送出との関連について考える。ご教示の程よろしくお願いしたい。
〔矢澤静二氏 記〕

2020年1月25日(土) 第638回例会:萩原真美氏【プログラム・ノート】

日時:2020月1月25日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 太刀川記念館 1階 会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:占領下沖縄における社会科成立史にみる教育政策方針―「沖縄の道」に着目して―
萩原真美 氏(お茶の水女子大学)

【プログラム・ノート】
 本発表は、拙博士学位請求論文「占領下沖縄における社会科成立史研究」(お茶の水女子大学、2019年3月22日授与(甲号第295号)に関する報告である。拙博士論文は、全Ⅲ部構成で、序章、第Ⅰ部 占領下沖縄における社会科成立の背景―六・三・三制導入に至る経緯―(第1章~第4章)、第Ⅱ部 占領下沖縄における社会科前史―人文科公民、地理、歴史―(第5章~第8章)、第Ⅲ部 占領下沖縄における社会科の成立(第9章)、終章からなる。
 拙博士論文では、占領下の沖縄において、日本の戦後教育改革の目玉の一つとされた社会科が、いかなる過程を経てどのような性質の教科として成立したかを検証した。沖縄の社会科の場合、占領下の沖縄に最も早く導入された本土の教育制度である六・三・三制に伴って設置された。社会科成立の直接的な要因である六・三・三制を導入するに至るまでの過程において、占領下沖縄における教育政策の実施にあたり、沖縄の独自性を尊重し、新たな沖縄を建設していこうとする精神(姿勢)である「沖縄の道」が重視された。その一方で、本土との結びつきを保ちたいという考えである「本土並み」を志向する動きもあり、「沖縄の道」と「本土並み」の間で揺れ動きながら、占領教育政策が実施されていた。
 ところで、「沖縄の道」とは、米軍の対沖縄占領政策方針である、沖縄の独自性を尊重するという方針に基づき、沖縄の教育行政側が考案した用語である。1946年にガリ版刷り教科書の編纂方針である「初等学校教科書編纂方針」と併せて出されたと推察される、「一、編纂方針の具体化」に、「沖縄の道(新沖縄建設の精神)」という項目が挙げられたのが初出である。具体的には、戦時下とは異なる、沖縄の固有の歴史等に立脚した沖縄固有の教材が盛り込まれた教科書を作成し、それに基づいて教育を行うことで沖縄の再建を目指すもので、戦時下の教育指針であった「皇国の道」を改め、「沖縄の道」と称したと推察される。
 本発表では、占領下沖縄において教育政策を進めるにあたり重視された「沖縄の道」に着目することで、占領か沖縄における教育政策の特徴やその方針に込められた沖縄復興への思いを示したい。拙博士論文の序章、第1章及び第2章の教科書編纂方針に関わる部分を中心に、同方針の立案に大きくかかわった人物である仲宗根政善の言説と照らし合わせながら、同方針に込められた教育による沖縄復興への思いをみていく。
〔萩原真美氏 記〕

2019年12月28日(土) 第637回例会:加藤雄大氏【プログラム・ノート】

日時:2019月12月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 地下1階第2会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:第6期教育指導者講習(IFEL)一般教育部門における講習内容」
加藤雄大 氏(日本大学・院)

【プログラム・ノート】
 本報告では、教育指導者講習(Institute for Educational Leadership;以下では「IFEL」と表記)一般教育部門における講習の内容を検討する。具体的には、本報告における一連の作業を通して、戦後高等教育改革関係者らの間で重要なものとして認識されていた「一般教育を通じて、学生を民主主義社会の担い手である「良き市民」として養成する」という理念が、どのような形で現場の大学教員に伝えられたのかという点を考察していきたいと考えている。この点について検討していくにあたり、本報告では特に「1951年1月8日から3月31日まで」(高橋寛人「解説 IFELと本書収録資料について」『占領期教育指導者講習(IFEL)基本資料集成 第1巻』すずさわ書店、1999年、21頁)開催された第6期IFEL一般教育部門(1950年)における講習内容に着目する。
 報告者はこれまで、上記の一般教育の理念が、実際に一般教育科目を担当する各大学の教員の間でどのように受けとめられてきたのかということに関心を持ち、戦後高等教育改革に直接関与することのなかった地方の一般教育担当教員の議論の内容を研究してきた。その過程で、報告者は「一般教育においてどのようなことを重視するのかという点について、当時の高等教育改革関係者と実際の大学教育の現場で一般教育科目を担当する大学教員の間に認識の相違があった」のではないかという考えを持つに至った(拙稿「近畿地区大学一般教育研究会における一般教育に関する議論の展開――第6回・第7回研究協議会(1952-53年)を手がかりに――」(大学史研究会『大学史研究』第28号、2019年、印刷中))。
 それでは、そのような戦後教育改革関係者と現場の一般教育担当教員との間の「認識の相違」は、いつ、どの時点から生じていたのだろうか。本報告を通じて、この点を今後より詳細に検討していくための示唆を得たいと考えている。
〔加藤雄大氏 記〕

2019年11月23日(土) 第636回例会:鈴木敦史氏【プログラム・ノート】

日時:2019月11月23日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 2階 会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:山形県庄内地方における公立小学校の設立と天皇像の醸成―明治14年の天皇巡幸に着目して―
鈴木敦史 氏(東海大学)

【プログラム・ノート】
 本発表では、明治期の山形県庄内地方において公立小学校が設立されてゆく過程を、明治14年に行われた天皇巡幸との関係に着目しながら検討する。その際、当時、庄内地方が有した地域の政治的課題との関係性に配慮し、そうしたなかで公立小学校の設立が地域社会において求められていくことの意味と、そこで醸成されてゆく天皇像について検討を行う。
 明治維新後、旧藩勢力の影響力が温存された山形県庄内地方では、県政をめぐる地域の農民層と支配者層の相互不信から、政治的混乱が生じていた。明治2年10月に納税免除や貸米の利息引き下げを要求して起こった天狗騒動は明治5年まで続き、騒動はその後、石代納と顕官の不正追及を求める一大要求となり、ワッパ騒動へと展開していく。それは、農村に住む人々の県政への不満の現れであった。こうした混乱に対処し、明治政府の近代化策の一環として、道路整備や学校教育政策を推進したのが、県令の三島通庸であった。
 明治7年に三島通庸が第二次酒田県令として着任すると、地域社会の近代化が急速に進められた。三島の近代化策は、土木事業と学校教育を重点課題としたが、とりわけ学校教育に関しては、「模範」的な「盛大ナル一学校」を創設することによる地域教育の振興が図られた。
 明治9年8月に創設された朝暘小学校は、同7年に設立された苗秀学校を前身として、洋風建物で新築され、地域の開化の象徴となったが、同校の設立は、上述のような三島の近代化策の一環として位置づけられる。こうした三島の学校教育政策は、同じ庄内地方に位置する酒田においても、琢成学校の設立という形で実現されてゆく。そして両校は、明治14年に実施された天皇巡幸で、天皇の訪問を受け、地域開化の象徴としてアピールされる。
 本発表では、三島通庸の県政運営のなかで地域社会に公立小学校が設立されてゆく過程を、明治14年の天皇巡幸との関係性に配慮しながら検討する。そして、そうしたなかで醸成される天皇像の一端にも言及をしていきたい。
〔鈴木敦史氏 記〕