日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

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活動

3月25日第659回例会(オンライン実施)吉川卓治氏の研究発表 【プログラムノート】

3月25日第659回例会(オンライン実施)吉川卓治氏の研究発表 【プログラムノート】

 <第659回例会>
*日 時:2023年3月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム:
 ☆専門学校令と私立医学校
         吉川 卓治 氏
   司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
専門学校令は1903年3月26日に公布された(勅令第61号)。その第一条で「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス/専門学校ハ特別ノ規定アル場合ヲ除クノ外本令ノ規定ニ依ルヘシ」と規定された。こうした「専門学校」の定義の仕方は他の学校令とは異なっていて、高等の学術技芸を教授する学校であれば、強制的に専門学校令に依拠させることになっていたと解されている(『現代教育史事典』)。最大手の医術開業試験の受験予備校で、野口英世や吉岡弥生が学んだことでも知られる私立済生学舎が専門学校令の公布直後に廃校となったこともしばしば併せて指摘されてきた。
専門学校令の成立過程やそれが私立学校に与えた影響などについては、倉澤剛や天野郁夫をはじめ多くの研究者が検討を重ねてきた。本報告は、これらの研究成果に学びながら、専門学校令がなぜ先述のような強制性を付与され、そのことはどのような事態をもたしたのか、ということを私立医学校との関係という視角から再検討しようとするものである。
予定している内容は以下のとおり。
第一に専門学校令の成立過程を改めて検討する。先行研究でその発端と指摘されてきた桂内閣での行政整理に加え、医師数の推移や医術開業試験の内務省から文部省への移管などを背景として押さえる。第二に専門学校令公布後の私立医学校の動向を明らかにする。これまで済生学舎が注目されてきたが、ここではそれ以外の私立医学校の動きに注目したい。そして第三に、専門学校令の厳格な適用を目指した文部省が方針転換を余儀なくされていたことを示したい。このことはこれまでほとんど見過ごされてきたのではないかと思われるが、専門学校令を評価する際には重要なポイントだと考えている。参加者のみなさんから多くのアドバイスをいただければ幸いです。
   〔吉川 卓治氏 記〕

2月25日第658回例会(オンライン実施)笠間賢二氏の研究発表 【プログラムノート】

2月25日第658回例会(オンライン実施)笠間賢二氏の研究発表 【プログラムノート】

<第658回例会>
*日 時:2023年2月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム:
 ☆小校教員検定に関する研究 -戦前期日本のもう一つの「教員養成」-
         笠間 賢二 氏
  司  会   小野 雅章 氏

【プログラム・ノート】
戦前日本における小学校教員の養成と供給が師範学校によるそれに尽きるものでなかったことは、日本教育史の常識と言える。教員免許状取得者に占める師範学校卒業者の割合が例年3~4割に過ぎなかった事実が、そのことを端的に物語っている。それ以外の部分は師範卒以外の方法、つまり小学校教員検定による免許状取得者だったのである。しかしながら、この小学校教員検定については十分な研究が蓄積されてこなかった。そのために、その実3割強に過ぎない部分に焦点をあてた師範教育史研究の成果をもってあたかも教員養成の全体であるかのようにとらえ、また、逆に7割弱の部分についての検討吟味を踏まえることなく小学校教員の力量や性行を総括してその責めを師範学校に帰してしまうことが、少なからずあったように思われる。こうした状況は当然に克服されなければならない。
近年、小学校教員検定に関する研究成果が徐々に蓄積されるようになってきた。だが、率直にいって、論稿の数ほどに内容が充実しているようには思えない。何件かの研究を除いて、小学校教員検定の制度的研究(制度的仕組みの研究)に力点がおかれているからである。道府県単位の事例研究は不可避であるが、①何のために、②どんなことがらを明らかにするのかについて、共通認識ができているようには思えない。
本発表では、先行研究の現状をこのように総括したうえで、次の二点を課題とする。第一は小学校教員検定をより丁寧に分析することである。輩出した教員の割合の多さにもかかわらず、その研究は、師範教育に比べて、雑駁であり貧相であった。第二は小学校教員検定をその実施過程にまで踏み込んで分析することである。ここにいう実施過程とは、検定受験者の修学歴を含めた履歴事項の分析や、彼ら彼女らのどのような側面がどう評定されたのかなど、教員検定の実施内容に踏み込んだ分析のことを指している。実施過程にまで踏み込んだ分析を行わないことには、どのような要件で免許状が授与されたのかが見えてこない。教員検定における免許状授与要件を揃えてみることによってこそ、事例相互の比較が可能となるであろう。それらを蓄積することによって、教員検定による免許状取得者がどのような力量(質)をもった教員だったのかを解明する、その一助としていきたい。
      〔笠間 賢二氏 記〕

1月28日第657回例会(オンライン実施)大戸安弘氏の研究発表 【プログラムノート】

1月28日例会(オンライン実施)大戸安弘氏の研究発表 【プログラムノート】

<第657回例会>
*日 時:2023年1月28日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム
 ☆久木幸男の近代教育史研究について(1)
            大戸 安弘氏
      司  会  須田 将司氏

【プログラム・ノート】
2004年2月5日、久木幸男(横浜国立大学名誉教授)は生涯を閉じた。時の歩みは早いもので、来年は没後20年の節目の年となる。日本教育史研究の世界において久木が果たした学問的役割の確かさと大きさとは、比肩する存在が容易には見出し難いほどであったことを否定するものはいないであろう。その79年の生涯のなかで残された豊穣な学問的業績の全体像をあらためて俯瞰し再確認することを通して、そこから今後の日本教育史研究の進むべき道筋を考える際のよすがとしたい。
久木の代表的著作は、『大学寮と古代儒教 日本古代教育史研究』(サイマル出版会、1968年)であり、古代教育史研究の領域において大きな足跡を残した。在来の研究が、例えば代表的な桃裕行『上代学制の研究』のように、時代状況との対話を見過ごし孤立分散的な解明に留まるという傾向にあったのに対して、同時代の政治状況との関係性に左右される官学との位置づけからの分析を進め、50年代後半から60年代にかけての時代にあって斬新な手法を用いたことにより高く評価された(68年に教育学博士、京都大学)。一方、横浜を退職するに際して、その増補改訂版として『日本古代学校の研究』(玉川大学出版部、1990年)が著されているが、前書刊行後の間に新たに蓄積された大学寮研究に加えて、新たなテーマである古代民衆学校の研究が盛り込まれている。古代民衆の識字をめぐる状況、民衆学校としての綜芸種智院・村邑小学の緻密な論証など、前人未到ともいうべき困難な課題にも取り組み、この領域を先駆的に開拓したといえる。
一人の研究者の成果としては、古代教育史に関する成果のみで十二分であるということもできる。しかし、久木の学問的視野は古代教育に留まるものではなかった。別紙の業績一覧に明らかなように、中世民衆の識字状況の解明を試みた教育施設としての村堂論や村校論、近世教育思想家としての大原幽学研究など、その問題関心は拡がり続け、留まるところを知らなかった。個々の論考の論証の厳密さ、鋭さにおいて、読むものの胸に深く迫ってくるものがあるという点でも特筆することができる。そのことは、68年に京都から横浜に拠点を移して以降、新たに取り組まれた近代教育史研究においても然りである。
この後、久木は『横浜国立大学教育紀要』と『佛教大学教育学部論集』を中心に、27点に及ぶ重厚な近代教育史研究を発表している。いずれも19世紀後期から20世紀へと至る過程において、天皇中心主義教育体制に対決ないしは対応した人々の実相を照射し、その体制の根幹である天皇制教育イデオロギーの混迷、矛盾、屈折を抉り出すという独自のアプローチの仕方に特徴があり、定型的な近代教育史研究とは一線を画している。 
総体で大作の単著2冊分と推定される膨大な量となる。しかしこれらは、最終的に著作として公刊されることはなかった。しかしながら、あえて近代教育史論集として構想するならば、概ね二つの主題に分類できそうである。一方は、「明治期仏教主義教育の研究」。他方は「明治期天皇制教育の研究」。今回は、前者を中心に、その全体像に迫ることとしたい。そして、久木幸男が残してくれた日本近代教育史研究の成果から、私たちは何を学びうるのか考察してみたい。
            〔大戸安弘氏 記〕

12月24日第656回例会 前田晶子氏の研究発表 プログラムノート

*日 時:2022年12月24日(土曜日) 午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年12月21日(水曜日) 午後11時59分
*プログラム:
☆幕末維新期におけるdevelopment の訳出と変容〜発達概念の形成史の試み〜
     前田 晶子 氏
 司 会 大島 宏 氏

【プログラム・ノート】
 近年、「子ども」を定義することが難しくなっている。例えば、年齢による定義は容易ではなく、2022 年7月に閣議決定された「こども基本法」では、「この法律において「こども」とは、心身の発達の過程にある者をいう」とされ、あえて年齢は明記されていない。このような子ども・子ども期の輪郭が曖昧化する傾向は、日本に限ったことではなく、子どもの権利保障や生涯発達論をめぐる論議が進む中で、単なる生物学的な物差しではなく、より複雑で社会的文脈に即した子どもの捉え方が求められるようになっている。つまり、普遍的な枠組みとしての子ども像は後景に退き、個別の「子ども理解」が重視され、発達のかたちもさまざまであると論じられるようになっているのである。
 発表者は、2000 年頃から日本における発達概念の形成史研究に取り組んできたが、この時期の研究背景として、1970・80 年代以降の発達論批判――教育思想史研究における近代教育批判や、反発達論など――があった。発達概念は、個人の能力の十全な発現という近代教育の理想を支えるものとしては十分ではなかったし、むしろその理想とは正反対の競争主義や規範主義を許容してきたのではないかという批判である。発表者は、これらの批判に共感しつつ、なぜ発達概念が日本に定着し、広がったのかを歴史的に明らかにすることを試みてきた。しかし、現在では、単なる発達論批判はアクチュアリティを失ってしまい、「発達論の不在」ともいえる状況が広がっているのではないかと考える。
 このような変化を踏まえつつ、今回の発表では、改めて発達概念の形成史を辿り、翻訳語として登場した「発達」が、日本の社会的文脈のなかでどのように受容されたのかを論じたいと考えている。この語彙は、1840 年代にオランダ語を介して日本に紹介され、1880 年代には辞書上で development との対訳関係が成立している。その数十年に渡る翻訳語の誕生のプロセスは、決して単純ではなかった。その訳出の仕事は、いわば新しい近代社会における普遍的な人間像の表象を生み出すものであったのである。その過程を辿ることを通して、概念としての有効性を失いつつある「発達」の現在的課題について考えたい。。
    〔前田晶子氏 記〕

11月26日第655回例会 大矢一人氏の研究発表 プログラムノート

*日 時:2022年11月26日(土曜日) 午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年11月23日(水曜日) 午後11時59分

*プログラム:
☆「軍政レポート」の研究 大矢 一人氏
司 会 大島 宏氏

【プログラム・ノート】
 筆者は、大学院時代に占領下の地域における教育改革史研究の勉強をはじめた。その時に使った資料の一つに「軍政レポート」がある。ここで言う「軍政レポート」とは、日本が占領されていた時期(1945 年8 月~1952 年4月 ただし「軍政レポート」自体、すべての時期にあるわけでない)に、日本各地の軍政組織(地方および府県レベルを今回は中心とする)が、上級機関(主に第八軍)に各組織の活動状況を定期的(多くは一月ごとに、半月のものも少し残っており、占領初期の場合には、日報もあり)に報告したものである。占領初期から末期まで、体裁などはかわるが、一貫して報告された。もちろん府県によって残存状況は少し違うが…。なお、「軍政レポート」は、「軍政施行報告書」「活動報告書」「活動報告」「月例活動報告」といった言い方もする。
 「軍政レポート」はもともとアメリカ国立公文書館別館に所蔵されていたが、1980 年代に国立国会図書館でいわゆるGHQ/SCAP 文書をマイクロフィルム化して、憲政資料室で公開された。その後2000 年代に科研費によってGHQ
/USAFPAC 文書が複写され、さらに憲政資料室に提供されて、「占領期都道府県軍政資料」(全156 巻?)としてまとめられている。
 このような「軍政レポート」はどうやって使えばよいのか、構成・体裁はどうなっているのか、そして、「軍政レポート」を使用した先行研究にはどういうものがあるのか、日本語に訳されているものはどれくらいあるのか、などを話したいと考えている。そのうえで、「軍政レポート」によって見えてくるもの、一方で見えないものについても報告する。
専門外の方が多いのかもしれませんが、自治体史で戦後編を執筆する可能性がある方もいらっしゃると思います。その方々には、ぜひとも「軍政レポート」を一つの資料として使ってもらいたいと考えます。私は、『北海道現代史』の編さん協力委員を仰せつかっており、占領期の教育改革を担当・執筆することになっていますが、資料編において、事務局より「軍政レポート」を掲載してほしいと依頼されました。このようなことが起こるかもしれません。
「軍政レポート」の使い方を少しでもお話しできたら、と思います
               〔大矢一人氏 記〕

第654回例会(オンライン実施)宮坂朋幸氏の研究発表【プログラムノート】

<第654回例会>
*日 時:2022年10月22日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年10月19日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「教師」「教員」再考
              宮坂 朋幸 氏
         司  会  小野 雅章 氏

【プログラム・ノート】
 明治5年4月「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」に象徴されるように、明治政府・文部省は「かつて幕藩時代にはこの国の教育思想のなかにほとんど見出すことのできなかった」「教師は養成されるべきものだ」という思想を選び取り、「『師匠』から小学校『教員』の造出への歩みをふみ出した」(寺﨑昌男編『教師像の展開』)。「教師」は養成されるべきものという思想を選択して「教員」の造出に向かった、というこの文章は、この国の「教員養成」の始まりを端的に表現しているともいえる。しかし一方で、「教師」と「教員」の違いには言及されず、「師匠」と「教員」の間に入るはずの「教師」の位置付けも明示されないなど、なぜそう表現できるのかの説明が不足している。2021年刊行の船寄俊雄編『近現代日本教員史研究』は、序章に「教師と教員」という付論を設けてはいるものの、1974年の佐藤秀夫説の「ニュアンスに同意」すると述べながら、「(本書では)厳密な使い分けを徹底しているわけではない」として、その違いについての吟味を留保している。その佐藤秀夫が「明白に使い分けられていた」と指摘する明治初期を対象にした第1章第1節、第2節でも「教師」と「教員」の違いには言及されない。
 果して「教員史」研究にとって、「教師」「教員」の違いを検討することに意味はないのか。本発表では、発表者がかつて研究していた教職者の呼称の変遷とその含意について再検討する。拙論によれば、「教員」は1872(明治5)年「学制」という法令に日本史上初めて規定された呼称であり、それ以前にはほとんど使用例がなかった。それに対して「教師」は「教員」以前から使用例が見られ、先行研究が指摘する「外国人教師」だけでなく、地方には多くの「教師」がいた。さらにさかのぼれば、「教師」以前には「師匠」や「師範」が一般的な呼称であった。
 本発表では日本教育史上のこの流れ、すなわち「師匠」→「教師」→「教員」という登場順序を再検証しながら、それぞれの呼称の特徴について考察する。  〔宮坂朋幸氏 記〕

第651回森透氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第651回例会>
*日 時:2022年5月28日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年5月25日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「私の研究の歩み~自由民権から大正新教育~」
                            森  透 氏
                     司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
私は古稀となり、昨年2021年3月末で福井大学と福井医療大学を退職した。この度、今までの研究の歩みを振り返りこれからの人生の展望を描いてみる機会を与えていただき感謝している。昨年4月の日本教育史研究会機関紙『日本教育史往来』251号(2021年4月30日)にも「教育史と私―『窓ぎわのトットちゃん』と教育史研究」と題する省察を書いているので参照されたい。私は、卒論、修論とも「自由民権運動と教育」を対象としてきた。卒論は東京教育大学教育学部で大学紛争が激しかった時期に、教科書裁判で著名な家永三郎先生に若干お世話になり「植木枝盛の教育思想」というタイトルで、その後修論は自由民権研究を継続し長野県の事例で「松本奨匡社の自由民権運動と教育-『基本的人権』論と人間像を手がかりとして-」とした。ここでの問題意識は、西欧的な近代的人権論や教育的価値を目指しつつも、他方で日本的な儒学思想や伝統思想との相克という点も追究したいテーマであった。当時、色川大吉の『明治精神史』や民衆史の安丸良夫、鹿野政直などの文献を読んでいた。その後、茨城県や栃木県の自由民権の事例研究を行い、35歳で福井大学に着任してからは越前の自由民権運動(杉田定一)をまとめた。大学では授業で日本教育史と外国教育史の両方を担当しなければならないという状況や、現実の子どもたちの豊かな学びを追究したいという思いもあり、歴史研究では明治期から大正期に時期を拡げたことで、福井県三国の小学校の実践と出会うことになる。三国尋常高等小学校(現・三国南小学校)が当時米国の教育者ヘレン・パーカストが訪問した学校であったこと、「自発教育」という実践を三好得恵校長が推進し全国的に著名な学校であったことなどがわかってきた。三好の次男・秋田慶行氏への聞き取り調査も行った。三国南小学校には明治・大正期からの学校日誌・学籍簿等が大切に保存され、それらを感動をもって見させていただいたことを思いだす。これらの歴史研究と同時並行して、当時の小学校では「総合学習」に注目が集まり長野県伊那市の伊那小学校の「総合学習」の研究大会に毎年学生と一緒参加するようになった。私の中では、大正期の教師たちの子どもたちの学びの支援と現代の支援が重なった思いであり、過去と現代の往復運動を常に心がけていたように記憶している。この伊那小の「総合学習」の源流が、長野師範附属小の「研究学級」の総合実践(淀川茂重)にあることがわかり、今の信州大学教育学部附属長野小学校の総合実践につながっていることに衝撃的な感動を味わった。
その後、歴史研究からは離れてしまった感があり、福井大学教職大学院の担当スタッフとして現場の先生方との相互の学び合いに没頭していった。夜行バスで学生や院生を連れての伊那小学校への毎年の参観は比較的最近まで続けていたように思う。古稀が近くなり今までの研究を著作にまとめたいと考え、2020年5月に『教育の歴史的展開と現代教育の課題を考えるー追究―コミュニケーションの軸からー』(三恵社)という単著を初めて出版した。本書は、3つの柱(歴史研究、教職大学院、養護教諭養成)から構成されている。サブタイトルの「追究―コミュニケーション」は今までの研究を串刺しにする視点と考えた。              〔森透氏 記〕

第653回例会(オンライン実施)亀澤朋恵氏の研究発表【プログラムノート】

 <第653回例会>
*日 時:2022年7月23日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年7月20日(水曜日)  午後11時59分

*プログラム:
 ☆「文検図画科」の研究
                                亀澤 朋恵 氏
                     司  会   高橋 陽一 氏

【プログラム・ノート】
 戦前期、日本の中等教員養成は高等師範学校、女子高等師範学校以外にも多様なルートが存在し、さまざまな背景をもった教員が教育現場を支えていた。戦前期の中等教員養成の全体像を明らかにするためには、その多様なルートの一つである国家検定試験制度「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(通称「文検」)を解明することの必要性が長らく指摘されてきた。「文検」は「独学者の登竜門」といわれ、試験の合格率は10%前後の難関であった。佐藤由子による「地理科」(1988年)の研究を皮切りに、寺﨑昌男・「文検」研究会によって本格的に研究が進められ、1997年にはその研究成果として『「文検」の研究――文部省教員検定試験と戦前教育学』(学文社)が公刊された。さらに2003年には分析対象の学科目を拡充し、『「文検」試験問題の研究――戦前中等教員に期待された専門・教職教養と学習』(学文社)が公刊されたが、未検討の学科目を残したまま研究は休止された。その後、寺﨑らの研究を継承し、未検討の学科目の研究が進められてきているが、全体像は未だ明らかになっていない。本報告が対象とするのは、未検討の学科目の一つ「図画科」である。「図画科」を明らかにすることにより「文検」研究を深め、将来的には教員養成の歴史的展望に寄与するものと考える。
 美術教育史的な観点からも、「文検図画科」は戦前期の中等図画教育の実態を明らかにするための一つの手掛かりになるであろう。「文検図画科」出身の図画教員は、中等図画教育界において図画教員養成の専門課程が置かれていた東京美術学校、東京高等師範学校出身の教員とならび、「我国中等図画教育界の三角形の一頂点」と自他ともに認める高い実力をもつ教員であったといわれる。彼・彼女らの「文検」受験の動機はどのようなものであったのか。図画教育に関するどのような力量を持っていたのか。その力量形成の過程(絵画学習の経緯、受験参考書や出版物、学習サークルなどの受験コミュニティ等)の内実等を明らかし、「文検図画科」が図画教員、図画教育界にとってどのように受け止められていたのか、検討を試みたい。本報告において「文検図画科」におけるこれまでの研究と課題を示し、皆さまの議論のきっかけになれば幸いである。
              〔亀澤朋恵氏 記〕

第652回例会(オンライン実施)八鍬友広氏の研究発表【プログラムノート】

<第652回例会>
*日 時:2022年6月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年6月22日(水曜日)  午後11時59分
*参加方法は、p.3「インターネット上での例会参加の事前登録について」をご覧ください。

*プログラム:
☆近世越中氷見町における一商人の生活史とその歴史的位相-田中屋権右衛門『応響雑記』の資料的可能性-
                                          八鍬 友広氏

【プログラム・ノート】
本発表は、越中射水郡氷見町における田中屋権右衛門の生活史の一端について、同人の記した『応響雑記』をもとに紹介し、同資料が有する多面的な可能性、および同資料にもとづいた今後の研究課題について検討するものである。
 『応響雑記』は、田中屋権右衛門が記した日記である。文政10年(1827)5月28日から書き始め、安政6年(1859)10月17日に擱筆している。その間32年におよび、権右衛門24歳から56歳までの記録となっている。
『応響雑記』には、権右衛門がおこなったさまざまな文化的な営為や娯楽、観覧した興行などについて詳細に記されている。文化的な活動は、俳諧、和歌、漢詩、狂歌、絵画、謡、生け花など多岐にわたっており、観覧した興行も軍書語り、能、浄瑠璃、芝居、相撲など、これまた多岐にわたっている。関心をもった書籍についての記録もあり、また儒学に関する講釈を聴聞した様子なども記している。
 文化的な活動だけでなく、日常的に接した情報や人間関係、仕事での金沢への出張などについても克明に記されており、それだけに『応響雑記』は、これまでもさまざまな視点からの研究に活用されてきた。たとえば、有感地震データベースなどへの活用は、その一例と言える。また竹下喜久男『近世地方芸能興行の研究』(清水堂出版1997年)や、梶井一暁「近世僧侶における町人との交わり」(辻本雅史編『知の伝達メディアの歴史研究』思文閣出版2010年)などをはじめとする、数々の研究において、『応響雑記』は取り上げられてきた。
 本発表においては、このような『応響雑記』の一端を紹介しつつ、個々の領域ごとの活動の記録としてだけでなく、一人の商人の生きた過程を、ある程度包括的に知ることのできる稀有な記録として、『応響雑記』の有する資料的な可能性を示したい。そしてそのような資料によって理解される一人の商人の生活史を、封建制や身分制といった社会編成の内実的な変容過程のなかに位置づけてみる可能性についても検討してみたいと考えている。              
                                   〔八鍬友広氏  記〕

第650回例会(オンライン実施)七木田文彦氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第650回例会>
*日 時:2022年3月26日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年3月23日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「「保健科」の誕生は何を意味したのか -経験と分断された近代的身体の行方-」
                                七木田 文彦 氏
                     司  会   上田 誠二 氏

【プログラム・ノート】
 戦後教育改革において誕生した「保健科」は、「体育科」との合科型教科「保健体育科」として発足した。「保健科」は、誕生当初から、①担当教員の課題、②実施率の低迷、③学びの質の保障等、数々の課題を負っており、課題が相互に関係しているがゆえに、後の改革を困難にした。新設された教科は、授業における子ども一人ひとりの学びのあり方を探求する以前に、先の課題解決に取り組まなければならない状況にあった。教科発足から70年を経た今日においても、発足当時の課題は解決されることはなく現在に至っている。
 課題の解決を見ない理由は、教科としての構造的欠陥によるものなのか、機能面における運用上の問題か、解決を目指す実践や研究のアプローチの問題か、政治・政策上の力学の問題か、または、その何れもか、本報告では、合科型教科「保健体育科」誕生の歴史を振り返りながら理由を顕在化してみたい。
 「保健科」誕生の制度史としては、1920年代から1947年までを対象に、時期を三つに分けて報告する。第一に、戦前昭和期に展開された健康教育運動(教科成立の基盤形成期)、第二に、健康教育運動の戦時下改革期、第三に、戦後教育改革によって学校体育指導要綱(1947年)が示されるまでの政策形成期についてである(思想的、構造的分析については、この時期に限定せず、「健康教育」として検討する)。
 戦後「保健科」誕生の意味は、医学の成果により疾病に対する罹患の予測可能性が明確になり、これを伝達することは、予防や健康増進を介して現在の生活を規定することでもあった(人々の生活は均質化された健康的ライフスタイルの確立を意味していた)。つまり、特定の病弱児童から予防的にコントロールできる可能性をもった一般児童を対象に、健康で合理的な生き方を推進する機能として、また、後の健康的生活を積極的に獲得するために導入されたのである。言い換えるならば、予防医学の知見から「演繹される生活態度の諸原理(医学や科学)に従属させようとする個人」を「健康教育」教科を通して成立させている。近年の行動科学化する「保健科」はこれを一層促進しており、「高度な合理化と自己コントロール」が支配する社会への適応を迫っている。
 以上の教科形成の背景で、これを支え、補完・推進したのが学校看護婦や養護訓導といった人たちである。学校において子どもの身体管理を担った同職の誕生にも紆余曲折の歴史がある。適宜、これにもふれながら報告する。                                          〔七木田文彦氏 記〕