日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

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活動

2017年10月28日(土) 第616回例会:長谷川鷹士氏【プログラム・ノート】

日時:2017月10月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階 第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:「師範型」論の再検討―師範生徒の教養を巡る議論を中心に―
長谷川 鷹士 氏(早稲田大学・院)

【プログラム・ノート】
 発表者はこれまで「師範型」論について、その内容や妥当性を検討してきた。「師範型」といえば戦前の師範教育が生み出してしまった好ましくない教員像である。例えばそれは唐沢富太郎によれば「着実、真面目、親切などがその長所として評価される反面、内向性、裏表のあること、すなわち偽善的であり、仮面をかぶった聖人的な性格をもっていること、またそれと関連して卑屈であり、融通性のきかぬ」性質であるとされ(唐沢、1955)、あるいは山崎奈々絵によれば「視野が狭い、社会性に欠ける、権力に従順で主体的な判断力に欠ける」性質とされた(山崎、2017)。そして、そうした型の教師を生み出さないために戦後の教員養成は教養教育を重視する「大学における教員養成を原則とした。
 つまり「大学における教員養成」原則はある一面では「師範型」論に基づいて形成された原則である。「師範型」を再び生み出さないための原則である。従って教員養成政策を考える際に「師範型」を避けるという課題意識を考慮する立場もありうる。例えば沖塩有希子が教職大学院制度に対して「師範型」論を吟味した上での改革でないと批判していたり(沖塩、2013)、山崎奈々絵が戦後の教員養成は「師範型」克服という課題を等閑視してきたと批判しているのなどが代表的事例である(山崎、2017)。こうした立場がある以上、「師範型」の捉え方が重要な問題として指摘できるはずである。つまり「師範型」とはそもそも何を批判していたのか。「師範型」はそもそも現実の戦前の初等教員の性質をどの程度捉えられていたのか。こうした点を明らかにすることは「師範型」論に基づく教員養成批判を吟味することにつながる点で有用と考える。
 そこで今回の発表では教育雑誌上の言論や各種調査を用いて、師範生徒がどのような性質を持っているとされ、それがどのように問題視されていたのかを検討する。検討時期はおおよそ大正期とし、主に師範生徒の教養に関する言論を対象とする。そうした作業を通じて「師範型」論を再構成してみたい。
(参考文献)
沖塩有希子「教員養成教育のあり方に関する一考察:教員の資質能力向上に関する中央教育審議会答申を手がかりとして」『千葉商大紀要』51巻1号、p.69、2013.9。
唐沢富太郎『教師の歴史』創文社、1955、p.55。
山崎奈々絵『戦後教員養成改革と教養教育』六花出版、2017、p.259。
〔長谷川鷹士氏 記〕

2017年9月23日(土) 第615回例会:堀内孝氏【プログラム・ノート】

日時:2017月9月23日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階 会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:青森県農学校の開校―軍馬改良と獣医育成
堀内 孝 氏(明治大学・院)

【プログラム・ノート】
 明治から昭和にかけて、機動力、輓曳力などにすぐれた馬は、軍馬、農耕馬、輸送馬として、日本の近代化に欠かすことのできない存在だった。たとえば陸軍は、最後まで十分な機動力が実現しなかったために、軍馬にその役割を求めたのである。
 しかし、日清戦争、北清事変、日露戦争において、陸軍が直面した軍馬の実態は深刻なものだった。ここから日本の軍馬改良が本格化していく。平時における農耕馬や輸送馬も、戦時には軍馬として徴発されるため、すべての馬を改良する必要があった。軍馬改良は、陸軍にとどまらず、農商務省や御料牧場を管轄する宮内省、獣医を育成する文部省、財政を担当する大蔵省、そして東北や北海道などの馬産地を巻き込んだ、国家的課題だった。
 改良のポイントとして常に指摘されていたのが、従順さと、体尺の向上、機動力、輓曳力など能力の向上だった。従順さには去勢が、体尺の向上にはすぐれた種馬の購入が、能力については調教の質が、改良の鍵となった。それは一朝一夕になし遂げられることではなかった。結果として、緊急かつ大量に獣医の育成が求められるようになった。
 日清戦争後から、獣医育成機関として全国に農学校が開校していった。1898年、旧南部藩の領地であり、名馬の産地とされた青森県三本木村(現在の十和田市)に、青森県農学校が誕生した。
 三本木村は、誘致運動に積極的だった。その中心には、旧斗南藩士(旧会津藩士)の存在があった。彼らにとって、戊辰戦争に敗れ、青森県の冬の厳しさに打ちのめされ、廃藩置県にあい、三本木発展のために必死だった。学校は彼らにとって、希望だった。
 青森県農学校は、軍馬改良という国家的課題を背景に、地域の思いが結実して開校したのである。軍馬改良を中心とする背景と、青森県農学校の開校までの経緯を報告したい。
〔堀内孝氏 記〕

2017年7月22日(土) 第614回例会:大多和雅絵氏【プログラム・ノート】

日時:2017月7月22日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階 会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:戦後夜間中学校と学齢超過者
大多和 雅絵 氏(横浜市職員)

【プログラム・ノート】
 わたしはこれまで、戦後夜間中学校(以下、夜間中学校)を対象とし、とりわけ1970年代の夜間中学校の動きに着目し研究を進めてきた。夜間中学校に関するこれまでの研究は、尾形俊雄・長田三男や田中勝文などの研究に代表されるように1960-70年代に書かれたものが多く、それらが長らく主要な先行研究となってきた。近年では、浅野慎一や江口怜により1950-60年代頃の夜間中学校について改めて研究が進められてきているが、1970年代以降の夜間中学校の動きを十分踏まえて系統立ててまとめた研究というのは発表されていない状態であった。そのような状況下で、博士論文「戦後夜間中学校に関する歴史的研究―学齢超過者の権利保障の問題を中心に―」(2016年3月)は、1970年代以降の夜間中学校の動きに着目し、夜間中学校がいかなるものとして成立しているのか、その歴史的経緯と存立のメカニズムを学齢超過者の教育を受ける権利をめぐる動きに着目し論じたものとなった(『戦後夜間中学校の歴史―学齢超過者の教育を受ける権利をめぐって』六花出版より6月末に刊行予定)。
 わたしは夜間中学校のその開設初期の歴史というよりは、今日までの「存続」という歴史に関心を寄せ研究を進めてきたのだが、夜間中学校の今日までの存続にかかわる重要な変化が1970年代に起こったものと考えている。この時期の最も重要な変化として、教育対象者の移行が挙げられる。夜間中学校は1950年代には学齢生徒を対象として開設されたが、1970年代には学齢超過者(本発表では、学校教育法第17条で規定されている保護者が子にたいし就学させる義務を負う年齢を過ぎた義務教育未修了者を示す)を対象とする教育機関へと変容した。このことにより、夜間中学校を通して公教育とりわけ義務教育制度のなかでひとつの重大な問題が浮かび上がってくる。それは、義務教育未修了者・学齢超過者の存在である。
 本発表では、博士論文と近刊予定の著書のなかで明らかにした夜間中学校を通してみえてきた学齢超過者の教育機会をめぐる問題を報告するとともに、これらの問題についてより考察を深めることを目的とする。
〔大多和 雅絵氏 記〕

2017年6月24日(土) 第613回例会:山崎奈々絵氏【プログラム・ノート】

日時:2017月6月24日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階 会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:『戦後教員養成改革と「教養教育」』を刊行して
山崎 奈々絵 氏(聖徳大学)

【プログラム・ノート】
 2017年1月に刊行した単著『戦後教員養成改革と「教養教育」』の内容や刊行を通して改めて考えてみたことなどを発表したい。
 本書は、2014年3月にお茶の水女子大学大学院より博士号を授与された学位論文「戦後初期の教員養成改革―「大学における教員養成」の成立と一般教養の位置づけ」を加筆・修正したものである。そして本書の目的は、「一般教養を重視して『師範タイプ』を克服する」という改革当初の理念が教員養成系大学・学部では発足当初から実質が伴っていなかったことを明らかにすることである。主な対象時期は、敗戦直後から1950年代前半である。
 師範タイプ(あるいは師範型・師範気質など)とは、師範学校で養成された小学校教員を低く評価した言葉で、視野が狭い、国家権力に従順で統制されやすい、学力が低い、鵜屈しているというようなさまざまな意味で1900年頃から用いられてきた。師範タイプを生み出した実際の原因は師範学校や師範教育だけにあるわけではないが、戦後改革では師範タイプと師範学校・師範教育が否定され、新たに大学で学問や幅広い教養を重視して、幅広い視野を備えた自律的な教員を育成しようとした。ところが、師範学校を再編して発足した教員養成系大学・学部では当初から、改革時の理念が顧みられず、一般教養は軽視されていくことになった。
 戦後初期の師範学校では、一般教養とは文科・理科を幅広く学修することであり、それが小学校の教科専門教育(師範教育)と混同され、また、戦前の中等教員養成とも混同されていた。また、小学校の免許状とあわせて新制中学校の免許状も取得する学生あるいは取得させる学校が主流であり、したがって幅広い学修とあわせて特定の教科について深く学ぶ必要があった。戦後教育改革の方向性を定めた教育刷新委員会においても養成現場の師範学校においても、全科担任の小学校教諭と教科担任の中学校教諭をあわせて養成すべきか、養成できるのか、といった点は本格的に議論されないまま、小中両方の免許状(しかも中学校は複数教科の免許状)をあわせて取得するという実態ができあがっていくなかで、一般教養は小学校の教科専門教育(師範教育)と混同され、教員養成では教科専門教育を幅広く行うのだからことさら一般教養重視を強調する必要がない、ということになっていった。このように、一般教養が小学校の教科専門教育(師範教育)と混同されたからこそ、一般教養重視といった理念は限られた時期に一定の説得力を持ち、同時に一般教養の軽視にもつながっていった。本書は、こうしたことを大学所蔵の一次史料などを用いて描き出した。
〔山崎 奈々絵氏 記〕

2017年5月27日(土) 第612回例会:金馬国晴氏【プログラム・ノート】

日時:2017月5月27日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階 会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:戦後初期コア・カリキュラムの実態と意義の再検討―カリキュラム冊子とインタビューを手がかりに―
金馬 国晴 氏(横浜国立大学)

【プログラム・ノート】
 このたびの報告では、戦後初期に各小学校で盛んに作成されたといわれるコア・カリキュラムの実態と、当時および今日における意義を明らかにしたいと思います。修士時代から20年間進めてきた研究です。
 コア・カリキュラムは戦後新教育の一系譜であり、当時の学習指導要領が示した生活単元学習、川口プランや本郷プランで知られる地域教育計画とは別の系譜と捉えられてきました。しかし、先行するその認識がまず、実態を示していないと思ってきました。いくつかの学校のカリキュラムに即して見ると、三つあるいは二つが重なっていることが多く、コア・カリキュラムはこれらの集大成というべき総合的なものであったと考えます。
 その意義を明らかにするためには、カリキュラムの理論から考えるべきでないと思い至りました。そこで私は、戦後初期の各小・中学校において、かなり多くの現場教師たちが大学教員の助言も求めつつ、独自に論議して自校のカリキュラムを構築していたこと、それを研究紀要、カリキュラム冊子、学習指導案集などに表現し、盛んに公開授業や研究集会を開いていたことなどに注目し、そうした現場の視野から、コア・カリキュラムという対象を捉え直すべきことを主張してきました。すでにその種の冊子類を1000冊以上収集しており、それらを史料としていかに活用すべきか、当時の雑誌記事・書籍などをいかに援用できるか、について論議させていただきたいと思います。
 さらに、コア・カリキュラムの冊子類を読解するにあたり、それらの文字史料を超える情報や視点が必要となりました。そこで、当時の教師たち(現在80代前後の元教師)に対するインタビューを進めてきました。合計50名以上(座談会として進めたこともあるので35件以上)のインタビュー記録を蓄積できていますが、上記の冊子類や雑誌記事といった史料と読み合わせるならば、いかなる事実が浮かび上がり、どんな新しい解釈が可能となるかについて、皆さんと議論していきたいと思います。
 以下のプロフィールに示した通り、私は教育史学者というよりも教育学者、とくにカリキュラム論者というべき者で、カリキュラム学会、教育方法学会、質的心理学会、オーラルヒストリー学会などで活動してきました。分野を兼ねることにより、史料整理や史料批判が不十分になりがちですが、ご遠慮なく厳しいご意見を頂きたく思います。
〔金馬 国晴氏 記〕

お知らせ(第29回石川謙賞について)

例年、4月例会は、石川謙賞の受賞者を囲んでの懇談会を開いておりますが、今年度、第29回、石川謙賞の審査の結果、「該当者なし」となりましたので、4月の例会は開催しないこと(休会)といたします。

2017年3月25日(土) 第611回例会:高瀬幸恵氏【プログラム・ノート】

日時:2017月3月25日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階 第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:戦時下におけるキリスト教主義高等女学校の妥協と抵抗―立教高等女学校を事例として―
高瀬 幸恵 氏(立教女学院短期大学)

【プログラム・ノート】
 立教高等女学校は、1877年に米国聖公会によって設立された立教女学校を前身とし、明治期に女子中等教育機関として発展を遂げ、1908年に高等女学校の認可を得たプロテスタント系のキリスト教主義学校である。同校の特徴として指摘できるのは、高等女学校令に基づく高等女学校として運営され、キリスト教主義を積極的に表明しない学校であったということである。
 1940年頃、高等女学校としての認可を得たキリスト教主義学校は、プロテスタント系はカトリック系に比して少なく、キリスト教主義の女子中等教育機関としてよく知られている宮城女学校高等女学部、青山学院高等女学部、フェリス和英女学校中等部、同志社高等女学部などは、専門学校入学者検定の認定を受けた各種学校であった。1899年の文部省訓令第12号により、学科課程に関して規定のある学校では課程内外において宗教教育を実施することはできなかった。宗教教育を実施できるのは、各種学校や専門学校などに限られたため、宗教教育の継続を目的として各種学校であることを選択する学校が複数あった。
 では、立教高等女学校において、宗教教育や礼拝が実施されなかったのか、また、国家の統制に対して抵抗がなかったのかというとそうではない。先述のキリスト教主義を積極的に表明しなかったという特徴と矛盾するように思われるが、御真影と教育勅語謄本の受け取りは他のキリスト教主義学校に比して最も遅い学校であった。高等女学校であることと、キリスト教主義学校であることのはざまで、同校はどのような妥協を重ね、またどのような抵抗しようとしたのだろうか。
 報告では、1930年代後半から1940年代前半までの立教高等女学校の動向を追うこととしたい。1935年には、宗教的情操の涵養に関する通牒によって、学校教育における宗教の取扱いについての文部省の見解が示された。この時期から総力戦体制となる1940年代前半までを対象とし、同校が国や地方行政から受けた統制の実態や、御真影と教育勅語謄本の受け取りをいかに拒み続けたのかを明らかにしたい。また、宗教教育や礼拝は、宗教的情操の涵養に関する通牒に矛盾しない形で―修養の一環として―継続されていたことについて資料に基づき紹介する。これらを通して、戦時下のキリスト教主義高等女学校が、継続できたものは何か、失ったものは何かについて検討するとともに、当時のキリスト教主義学校に対する統制のあり方について考察したい。
〔高瀬 幸恵氏 記〕

2017年2月25日(土) 第610回例会:国谷直己氏【プログラム・ノート】

日時:2017月2月25日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階 第1会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:昭和戦前期の茨城県教育と水戸学―「茨城県教育綱領」制定過程と水戸市竹隈小学校における訓育―
国谷 直己 氏(東洋大学・院)

【プログラム・ノート】
 昭和戦前の茨城県における郷土教育運動は、水戸学精神を涵養することが教育の目的となっていったことが、伊藤純郎や外池智の先行研究によって解明されている。しかしながら、報告者は水戸学と教育の関連性を、郷土教育の視点からのみでは完結できないと考える。茨城県において水戸学精神(弘道館記)と教育勅語の趣旨は一致すると捉えられ、郷土教育運動以前から「日本主義」に類する論理構造をもった教育論が表れていた。また、茨城県の郷土教育が『総合郷土研究』(茨城県男女両師範学校、1939年)の刊行をもって節目を迎えた後も、水戸学精神の教育はより一層色濃くなったように見受けられる。以上のような理由から、茨城県教育における水戸学の形成と展開を、郷土教育運動という枠組みの外から見直す必要があると考えたのである。そこで、本報告では以下の2点を取り上げる。
 1点目として、水戸学精神を基調とした「茨城県教育綱領」(以下、「綱領」と記す)の制定過程を再考する。外池は、茨城県の郷土教育運動を、「綱領」制定によって「一区切りを迎え」、「綱領」の実践化という形で「発展的に変容」したと位置づけた。しかしながら、「綱領」制定は郷土教育運動との連続性というよりも、県下教育界で起こった数々の不敬事件を収束させる役割が求められ、さらにその予防策として教員及び県民に水戸学精神を徹底させることが目的だった。
 2点目は、水戸市竹隈小学校における教員たちの教育観と実践である。竹隈小学校とは、「国民訓育連盟」の会員校の中でも、特に「訓育優良学校」とされた千葉東金小学校や神奈川鎌倉第一小学校、静岡大久保小学校と並んで称される城東小学校の前身校である。城東小学校は、水戸学精神を色濃く反映させた訓育論を展開し、『水戸学行城東の教育』(1941年)、『教行一如の教育』(1942年)を刊行した。それは、1933(昭和8)に竹隈小学校校長として赴任した山崎力之介が、訓導たちを指導・牽引してから躍動したようである。第一出版協会の編集者古閑停は、その訓育実践に目をつけ、雑誌『訓育』を1936(昭和11)年2月に創刊した。これに言及した先行研究は管見の限りない。その内容は、編集顧問の入澤宗寿、小西重直、長田新の論考と、竹隈小学校訓導たちによる実践研究が主となっていた。1938(昭和12)年になると他県他校の実践研究も登場し、同年8月に開催された全国的な講習会を経て「国民訓育連盟」が発足した。
 この間の史料調査で明らかになったそれらの様相を紹介したい。
〔国谷 直己氏 記〕

2017年1月28日(土) 第609回例会:田嶋一氏【プログラム・ノート】

日時:2017月1月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:1920年代の青年たちの自立への希求と自由大学運動
田嶋 一 氏(國學院大學)

【プログラム・ノート】
 今回の報告では、「青年の自立と教育文化」の問題を、1920年代の自由大学運動を手がかりにして考察してみたいと思います。
 かつて私は、「青年期の誕生」という論文を書いたことがありました。ここでは、日本の青年の歴史をとらえるために青年期の三層構造というパラダイムをつくってみました。その後、この論文をふまえて「<青年>の社会史―山本滝之助の場合」、「修養の社会史(1)―修養の成立と展開」「修養の社会史(2)―修養の大衆化についての事例研究」等の論文に取り組みました。一連の仕事の中で、近代日本の青年たちは自立することを求め続けてきたこと、青年の自己形成の問題と修養、教養の問題は深く繋がっていたこと、などを確信することができました(これらの論文は拙著『<少年>と<青年>の日本近代―人間形成と教育の社会史』東京大学出版会、2016、に収めました)。
 「修養の社会史(1)」では、青年の自己形成上の重要な概念となった<修養>と<教養>の成り立ちを私なりに素描し、両者の関係をとらえてみようと試みました。そして、文明開化期にcultivateの翻訳語として産み出され、青年の自己形成のキーワードとなった修養の用語と概念が、その後不幸にも<修養>と<教養>の二つに分かれてしまったことや、それぞれが青年の階層化に対応した独自の自己形成概念としての特徴をもつようになったことなどについて、理解を深めることができました。同時にこの論文の中で、青年期の人間形成のためのこのふたつの概念が一つのものに統合される可能性を示した運動として、私は自由大学運動に着目し、論文の中でこの運動に内在した未発の契機についての仮説的な見解を提出しておきました。この仮説を、三層構造論のパラダイムを生かしながら、青年たちの実態や願いに即して実証してみたいと考え、私はその後、「啓明会の教育運動と農民自由大学の構想―青年の自立と教育文化」(『國學院大學教育学研究室紀要』第50号、2016)をまとめてみました。ここでは師範学校出の教師たちの青年としての自立の軌跡を、農村青年の教育運動とからめて追ってみようと考えました。さらに続けて、今回、「1920年代の青年たちの自立への希求と自由大学運動」(『國學院大學教育学研究室紀要』第51号掲載予定、2017)という論稿をまとめてみました。「修養の社会史(1)」で提起した、自由大学運動の中では地域に生きる青年たちの自己形成の希求と都市知識人の新しい教養論が合流しようとしていたという仮説を、レンズをマクロからミクロに代えて、実際に確かめてみようと考えて取り組んだものです。
 今回の報告では、この論稿に取りかかってわかってきたこと、考えてみたことなどを報告させていただくことにしたいと思います。自由大学研究は、1970年代に入って自由大学研究会のメンバーを中心に盛んに行われ、大きな成果を上げています。その成果に学びながら、この運動に参加した青年たちの心の中に入り込んでみるとどんなことがわかってくるのか、青年たちのまなざしに私のまなざしを重ねてみるとどんな世界が見えてくるのか、などということを考えつつ、近代日本の青年期教育の歴史上きわめて重要なこの運動を「青年の自立と教育文化」という視点から報告させてもらうことにします。
 報告の内容は、①研究上の視点および先行研究、②自由大学運動の担い手となった青年たちの自立への希求―上田自由大学と伊那自由大学、③メンターとなった人たちの自立の課題と教育文化、④整理、となる予定です。②では、この運動に参加した青年たちの残した記録を分析してみる予定。③で取り上げるのは、土田杏村と高倉輝の二人です。
 私の研究は、始まったばかりです。皆さんに経過報告をして、いろいろな角度から検討していただき、研究を次に進める手がかりを見出したいと思います。また、今回の報告を通して、「青年の自立と教育文化」の歴史をより深く豊かにとらえる方法を鍛えることができればありがたいと思っています。
〔田嶋 一氏 記〕

2016年12月24日(土) 第608回例会:三ツ井崇氏【プログラム・ノート】

日時:2016月12月24日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館2階会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:近代朝鮮における言語の政治史・社会史―教育史との接点を考えるための試論―
三ツ井 崇 氏(東京大学)

【プログラム・ノート】
 日本の朝鮮植民地統治時代の教育史の観点から研究する際、言語の問題は重要な論点の一つであることは言うまでもない。とりわけ学校教育の場における朝鮮語抑圧の実態は、支配の苛酷性を物語るものとしての認識が共有されている。しかしながら、言語の問題は(学校)教育の領域に限定されて論じられるものではない。近代朝鮮の「言語問題」は、教育史、社会言語学、歴史学の間で、議論の有機的な連関を持たないまま論じられてきたきらいがある。報告者はこれまで、朝鮮総督府の朝鮮語教科書編纂過程と朝鮮知識人の言語運動との関係性について解明し、さらに社会史の観点から朝鮮の「言語問題」をとらえる試みをしてきた。本報告では、その試みの一端を提示して、議論を喚起したい。
〔三ツ井 崇氏 記〕