日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

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10月26日第672回例会(学習院大学会場)氏の研究発表【プログラムノート】

10月26日第672回例会(学習院大学会場)氏の研究発表【プログラムノート】

 <第672回例会>
*日   時:2024年10月26日(土曜日)午後3時~5時(対面で実施)
*会   場:学習院大学北一号館2階教育学科模擬授業教室
*プログラム:「学徒隊」の構想とその具現―1939~45年の「有事即応態勢確立」論議に着目して―
                    須田 将司  氏
               司  会  前田 一男  氏

【プログラム・ノート】
本報告は、科研費補助金(基盤研究(B))「「戦時教育令」と教育の崩壊過程に関する総合的研究」(研究代表・斉藤利彦、2021~2023年度)の『研究成果報告書』(2024年3月)に寄せた論稿をもとに行う。
1945年5月22日の戦時教育令第三条には、「戦時ニ緊要ナル教育訓練ヲ行フ為」の「学徒隊」組織化が記された。同年6月6日の内閣情報局編『週報』に掲載された「戦時教育令の解説」は、「学徒隊」に関する内容が中心であり、その具現が最大の政策課題であったことが読み取れる。これはひるがえせば、その母体となった国民学校・青年学校単位の「大日本青少年団」と中等学校以上の「学校報国団」では、本土決戦に十分に対応することが出来ない、との政策決定がなされたことを意味する。だが、先行研究では、その政策課題が生まれる経緯や具現に関して論及したものはわずかである。本報告は、この点を1939年の「学徒隊編成問題」からの系譜で捉え直すことを試みる。
この着眼のきっかけは、2つの記事(論調)を見出したことにある。一つ目は、1944年1月の『興亜教育』誌上で文部省体育官・高橋眞照が述べていた、「大日本青少年団」と「学校報国団」が「二本建」であることへの疑義である。高橋の論調に添うならば、その後に登場した戦時教育令は両者の「二本建」を廃し、「一本化」を命じたものとなる。二つ目は、1945年3月27日付『朝日新聞』の論述である。そこでは「待望久しかつた学徒の戦闘的訓練組織“学徒隊”」といい、「そもへの提唱者は六年前の荒木文相であつた」と述べられていた。いわば1945年の「学徒隊」が1939年の〔荒木学徒隊案〕の改変である、との当事者意識が示されている。これら2つの記事を重ね合わせるならば、〔荒木学徒隊案〕→「大日本青少年団」と「学校報国団」の「二本建」→戦時教育令による「学徒隊」への「一本化」という歴史像が浮かび上がってくる。
この歴史像を検証するには、なぜ〔荒木学徒隊案〕の後に「二本建」の青少年組織が登場し、やがて問題視され、その解決策として「一本化」が浮上したのか、を辿ることが不可欠となる。その際、「有事即応態勢確立」という軍部の要求に留意したい。これは、〔荒木学徒隊案〕に内在し、1943年以降の論議において前面に出てくるキーワードである。この要求が、「学校報国隊」と「大日本青少年団」の「二本建」の不備を衝き、「一本化」へ至る論議を具体化させていくことを辿ってみたい。
これに加え、1945年の「学徒隊」結成による「新たな」事態(その具現の様相)を、本研究に関わる調査で明らかとなった新聞報道や各府県広報に捉える。これにより、「有事即応態勢確立」の要求がもたらした戦争末期の教育の姿を多面的に照らし出してみたい。
                           〔須田将司 記〕

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