3月23日第668回例会(学習院大学会場)青柳翔也氏の研究発表【プログラムノート】
<第668回例会>
日 時:2024年3月23日(土曜日) 午後3時~5時 (対面で実施)
会 場:学習院大学北1号館2階教育学科模擬授業教室
プログラム: ☆1880-90年代における唱歌(音楽)科中等教員養成の模索
青柳 翔也 氏
司 会 上田 誠二 氏
【プログラム・ノート】
戦前日本の師範学校・中学校・高等女学校教員(以下、中等教員)養成について船寄俊雄は、高等師範学校・文理科大学に生じた帝国大学/アカデミズムへの「羨望と競争の意識」を批判的に分析・考察し、今も続く「大学や教育学部の内なるアカデミズム志向、教員養成重荷論を克服」する必要を提起した(『近代日本中等教員養成論争史論――「大学における教員養成」原則の歴史的研究』、学文社、1998年)。しかしこの指摘は、帝国大学に相当する学部・学科が存在しなかった学科目、とりわけ近代的学問システムの基底をなす論文業績主義の適用が今なお保留されている芸術・体育等の分野に対し、直ちには当てはまらない。帝国大学による学校支配がもたらした教員養成の可能性や隘路は、その背景をなすアカデミズムの歴史性を踏まえ考察する必要があるといえ、そのさい帝国大学/アカデミズムに占める位置をもたなかった分野は重要な検討対象となりうる。こうした課題意識のもとに報告者は、帝国大学による学校支配が確立した1900年代以後における音楽科中等教員養成の展開について、音楽専門家養成との歴史的関係を踏まえた検討・考察を行なってきた。
では、1900年代以前はどうだったのか。周知の通り、近代日本の学校教育において唱歌科は「当分之ヲ欠ク」という但し書きとともに制度化され、1879年に文部省内に設置された音楽取調掛がその実施を主導した。同掛による教員養成については、その可否をめぐって文部省内に意見の対立が生じていたことが指摘されてきたが、1887年に同掛が(旧)東京音楽学校へと改組され中等教員を養成する機能が与えられたのちも、同校出身者の教員社会への進出が必ずしも順調に進まなかったことは知られていない。加えて、同校の音楽科中等教員養成は音楽専門家養成と事実上未分化であり、その役割も唱歌の普及という初等教育上の課題と不可分だった。このことは、1900年代以後の音楽科中等教員養成の展開を意味づけるうえで、重要な論点をなすと考える。
本報告では、上記の課題意識を交えつつ、1880-90年代における唱歌(音楽)科中等教員養成の展開を整理・検討する。そのさい具体的には、音楽科を専門的に教授する教員の制度的地位と、その普通教育上の役割をめぐる議論に着目し、模索段階における唱歌(音楽)科中等教員養成のありように考察を加える予定である。
〔青柳翔也氏 記〕