日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

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2016年11月26日(土) 第607回例会:足立洋一郎氏【プログラム・ノート】

2016年11月26日(土) 第607回例会:足立洋一郎氏【プログラム・ノート】

日時:2016月11月26日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館地下1階第2会議室
   〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:主体と慈善―成立期盲学校の設立者・支援者―
足立 洋一郎 氏(浜松視覚特別支援学校)

【プログラム・ノート】
 戦前、小学校の義務教育が半ば強制的に実施されたのに対し、盲、聾、知的障害、肢体不自由など障害児教育は、基本的に「放任」の状態であった。1872年発布の「学制」においては、何の説明もなく、「此の外廃人学校あるへし」と付記されたが、その後の教育令や第一次小学校令では「廃人学校」という文言すらなく、障害児は「就学猶予」「就学免除」という扱いになっていった。しかし、こうした中でも盲・聾教育は少し違っていた。先駆的に官立、公立の盲唖学校が1校ずつ設立され、その後多数の私立学校が設けられた。当事者や関係者の教育要求が高まり、1923年「盲学校及聾唖学校令」が公布された。本報告は、この法令公布までの成立期盲聾教育、とりわけ盲教育の特質について考察するものである。
 1900から1910年代にかけて慈善家や慈善団体などの支援を受け私立の盲学校、盲唖学校が多数設立されたが、いずれも小規模で経営難、教育環境も不備であった。通説では、こうした状況を「慈善学校的」とし、不十分とはいえ道府県立の盲学校、聾啞学校の設立を定めた「盲学校及聾啞学校令」はこれを改善、克服したものととらえられている。事実としては確かにそうであるが、やや否定的なニュアンスの「慈善学校的」という言葉でくくってしまうと、当該期の多様な側面をみえにくくしてしまうおそれがある。これは学校教育という枠にややとらわれているからではないかと思う。慈善事業の視点からみれば、当該期の盲啞学校は孤児院などと同様慈善の対象であった。教育制度上「放任」されていた盲学校、盲啞学校を理解するためには、学校教育と慈善事業という2つの視点からみていく必要があると考える。このことを論を進める前提にしたい。
 盲聾教育は、東京、京都の官立、公立の2校の盲啞学校で始まったが、その後私立の盲啞学校が設立され始め、1900年ごろからの慈善事業期からは多数の私立学校が設けられるようになり、1910年ごろの感化救済事業期からは一層増加し、盲生徒を中心に生徒数も増えた。この背景にはとりわけ盲人の教育要求の高まりや民間の慈善事業の展開、感化救済事業期からの県や市による補助金の増加などが考えられる。盲啞学校の設立者をみると、私立学校の設立者は当初、宣教師や医師、教師であったが、やがて当事者である盲人自身が設立の主体となることが多くなった。報告者が調べた範囲に限っても学校設立者の6割弱は盲人あるいは弱視者であった。これら当事者である設立者に協力して慈善家や慈善団体が積極的に支援、協力して学校が設立され、維持されたのである。1900年代から1910年代にかけて多数設立された私立の盲(唖)学校は「慈善学校的」であったが、「慈善学校的」なの内実は、当事者である盲人の「主体」による設立とそれを慈善家や慈善団体が支えた「慈善」であり、これが成立期盲教育の特質であった。
〔足立 洋一郎氏 記〕

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