日時:2019月11月23日(土曜日)午後3時から5時
会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 2階 会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1
アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分
プログラム:山形県庄内地方における公立小学校の設立と天皇像の醸成―明治14年の天皇巡幸に着目して―
鈴木敦史 氏(東海大学)
【プログラム・ノート】
本発表では、明治期の山形県庄内地方において公立小学校が設立されてゆく過程を、明治14年に行われた天皇巡幸との関係に着目しながら検討する。その際、当時、庄内地方が有した地域の政治的課題との関係性に配慮し、そうしたなかで公立小学校の設立が地域社会において求められていくことの意味と、そこで醸成されてゆく天皇像について検討を行う。
明治維新後、旧藩勢力の影響力が温存された山形県庄内地方では、県政をめぐる地域の農民層と支配者層の相互不信から、政治的混乱が生じていた。明治2年10月に納税免除や貸米の利息引き下げを要求して起こった天狗騒動は明治5年まで続き、騒動はその後、石代納と顕官の不正追及を求める一大要求となり、ワッパ騒動へと展開していく。それは、農村に住む人々の県政への不満の現れであった。こうした混乱に対処し、明治政府の近代化策の一環として、道路整備や学校教育政策を推進したのが、県令の三島通庸であった。
明治7年に三島通庸が第二次酒田県令として着任すると、地域社会の近代化が急速に進められた。三島の近代化策は、土木事業と学校教育を重点課題としたが、とりわけ学校教育に関しては、「模範」的な「盛大ナル一学校」を創設することによる地域教育の振興が図られた。
明治9年8月に創設された朝暘小学校は、同7年に設立された苗秀学校を前身として、洋風建物で新築され、地域の開化の象徴となったが、同校の設立は、上述のような三島の近代化策の一環として位置づけられる。こうした三島の学校教育政策は、同じ庄内地方に位置する酒田においても、琢成学校の設立という形で実現されてゆく。そして両校は、明治14年に実施された天皇巡幸で、天皇の訪問を受け、地域開化の象徴としてアピールされる。
本発表では、三島通庸の県政運営のなかで地域社会に公立小学校が設立されてゆく過程を、明治14年の天皇巡幸との関係性に配慮しながら検討する。そして、そうしたなかで醸成される天皇像の一端にも言及をしていきたい。
〔鈴木敦史氏 記〕