日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

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11月25日第664回例会(オンライン実施)宮里崇生氏の研究発表【プログラム・ノート】

11月25日第664回例会(オンライン実施)宮里崇生氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第664回例会>
*日 時:2023年11月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2023年11月22日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆:占領初期沖縄教育の基盤の形成過程について――志喜屋孝信の教育思想に着目して――
                        宮里 崇生 氏
                  司  会   小野 雅章 氏
【プログラム・ノート】
本発表の目的は、戦前から占領初期まで一貫して沖縄教育界で指導的立場にいた志喜屋孝信に焦点を当て、志喜屋の公私における主張からその教育構想を捉え、占領初期沖縄における教育方針の内実を明らかにすることにある。
先行研究では占領初期沖縄の教育方針について、1946(昭和 21)年沖縄文教局が示した『初等学校教科書編纂方針』、とりわけ文書中の「沖縄の道」に焦点を当てた分析がなされている。「沖縄の道(新沖縄建設の精神)」に言及 している研究として、森田俊男(1966)、百次智仁(2014)、萩原真美(2021)がある。特に、最新の研究成果である萩原真美『占領下沖縄の学校教育―沖縄の社会科成立過程にみる教育制度・教科書・教育課程―』(六花出版)は「沖縄の道」について、米軍側の「本土と沖縄の切り離し」という目的を、沖縄側が「沖縄(略)固有の歴史を尊重すること」と捉えなおし、「従来とは異なる新たな沖縄を建設」するという意味へ「置き換え」たのではないか、と指摘する。「沖縄の道」について、沖縄側の主体性に着目した重要な研究であり、筆者も萩原(2021)の指摘に同意するが、史料的限界もあって推測の域を出ていないといえる。
これに対して本発表では、当該期沖縄における復興事業全体の指導的立場にいた志喜屋孝信に着目し、その公私における主張から教育構想を捉えることで、占領初期沖縄の教育方針の内実を明らかにする。換言すれば志喜屋の主張から、従来の占領者対被占領者という追従の図式では見えづらかった、教育方針の形成過程及び具体的内容について動態的に明らかにしていきたい。
志喜屋孝信は、1884(明治17)年中頭郡具志川間切(現うるま市)に生まれ、沖縄県立第一中学校、広島高等師範学校を卒業ののち、県外にて中学校教員となる。1911(明治44)年に沖縄県立第二中学校に転任し、1924(大正13)年には同校校長に、1936(昭和11)年には私立開南中学校を設立し、同校の校長となっている。そして1945(昭和20)年には米軍による要請によって沖縄側行政代表者となり、1950(昭和25)年に退任するが、同年に琉球大学初代学長に就任している。このように志喜屋孝信は、戦前期は県内随一の教育指導者であり、占領初期は復興事業全体の指導者であった。これまで同氏の評価は、専ら占領初期の行政指導者としての側面に偏り、またその際も米軍政府に追従した「御しやすい人物」とされている。しかし私的主張を見れば、葛藤や妥協、計画的な公私の使い分けが読み取れる。
本発表では、まず志喜屋孝信の教育構想について『志喜屋孝信関連文書群』を主として当該期の新聞及び回顧録等から捉え、沖縄指導者がどのように敗戦を経験し、占領者と対峙し、葛藤や対立、妥協や協調を経て復興に従事していったのかを明らかにする。その上で占領期沖縄の教育方針の形成過程とその具体的内容を明らかにする。
当日は、補助資料として『志喜屋孝信関連文書群』調査報告書を配布させて頂く。会員の方々には、同書についても併せてご検討して頂ければ幸いである。
                〔宮里崇生氏 記〕

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