日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

〒112-8681
東京都文京区目白台2-8-1日本女子大学

人間社会学部現代社会学科上田誠二研究室気付
TEL 03-5981-7531
【半角文字】ahsej@
ahsej.com

例会

日本教育史学会例会の開催

 日本教育史学会の例会は、会報やこのウェブページでお知らせする会場で、8月を除く毎月第4土曜日午後3時に開催されています。一人の報告者が、報告と討議をあわせて合計2時間の持ち時間で行います。通常の学会発表と異なり、充実した時間をつかた研究発表と討議が可能です。
 過去の日本教育史学会の例会記録は、『紀要』掲載の記録や記録のページをご覧ください。

例会の研究発表のご案内

 例会で研究発表を希望する会員は、日本教育史学会事務局にご相談ください。
 例会の研究発表者は、事前に事務局に「発表題目」とそれぞれ800-1000文字程度の「プログラム・ノート」(今回の発表内容の紹介)、800文字以内「発表者のプロフィール」(著書・論文や略歴などの紹介文の原稿)を提出してください。
 提出された発表題目やプログラムノートは、この日本教育史学会ウェブページで公開されます。このページに随時掲載しますので、ご参照ください。会員に送付する会報には発表者のプロフィールも含めた全文を掲載します。
受付 ahsej@ahsej.com【実際の送信はすべて半角英数字にしてください】


会場のご案内(例会開催場所)

 例会会場は、会報やこのウェブページに掲載します。永らく謙堂文庫を石川家のご厚意で使用しておりましたが、現在では立教大学などの大学会議室を借用しております。会場はその都度異なりますので、ご注意ください。
*2021(令和3)年2月からはオンラインでの開催をしております。

例会表示回数の変更
 2016(平成28)年4月より『日本教育史学紀要』第687頁(下記)に掲載のとおり、例会の回数表示を変更いたします。
「二〇一一年度以降の例会回数について、会報の号数と例会の通し回数が一致しない年がある(例会が実質開催されなかった月の存在等による)ことが判明しました。今巻より、例会の通し回数を優先させ、二〇一一年度からの例会回数を以下のように訂正いたします。二〇一一年度(第五四七回~第五五七回)、二〇一二年度(第五五八回~第五六八回)二〇一三年度(第五六九回~第五七九回)。」

活動報告

第648回例会(オンライン実施)木村政伸氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第648回例会>
*日 時:2022年1月29日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年1月26日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「西鶴が描いた17世紀の子育てと学び」
                                木村 政伸氏
                     司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
 近世が「文字社会」となったことは、かなり浸透した見方だといえようか。その契機は経済活動の活発化や統治上の文書主義などいろいろ考えられる。では、読み書き能力が広く浸透することで社会や人々の生活はどう変わったのであろうか。こうした問いに応えるのは容易ではない。地方文書などは統治・被統治の関係性の中で作成されたものであり、教訓書などはあくまで道徳を説くものであることから、ナマの生活をそこから読み解くのは難しい。日記なども可能性があるが、量的質的な限界が横たわっている。
 そこで注目したのは、文学作品である。とりわけ17世紀末に大量の作品群を刊行し、多くの読者を獲得した井原西鶴の作品群に着目した。西鶴の作品は、町人、武家に限らず、また男女の両方にわたっており、きわめて多様である。これらの作品群には、主に三都で暮らす人々の姿が豊かに描かれているが、とりわけ重要なのは人々の感情や考えを知ることができることである。西鶴の作品を紐解くことから、子育てや学びなどの実際の姿について多くの知見を得ることができるのではと考えた。
 こうした着想から、すでに「西鶴作品にみる17世紀後期の識字能力と教養の形成」(『九州大学大学院教育学研究紀要』第20号、2018)、「一七世紀における遊女の教養形成と文字文化」(『日本教育史学会紀要』第10号、2020)、「『子はうき世のほだし』考-西鶴作品から見る子ども忌避論―」(『日本の教育史学』第64集、2021)を発表した。
 この一連の論文の中で、西鶴作品が17世紀後期という時代性をよく表現していると考えられる現象や、文字社会化していく都市部の生活の変化などを明らかにしてきた。それらの中は、文学作品故に可能となったものもある。
 もちろん、文学に書かれたものはまるごと現実に発生した現象ではないことはいうまでもなく、文学作品から歴史を描く際には、十分な検証が必要である。しかし文学であるから知れる人々の感情や思考を読み取ることも可能であろう。
 今回は、このようにこれまで続けてきた西鶴作品の分析から見えてきた研究の可能性と課題について、報告を行いたい。
              〔木村政伸氏 記〕

第647回例会(オンライン実施)池田裕子氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第647回例会>
*日 時:2021年12月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年12月22日(水曜日)  午後11時59分
*参加方法は、p.3「インターネット上での例会参加の事前登録について」をご覧ください。

*プログラム:
 ☆「樺太のマイノリティはどう生きたのか」
                                池田 裕子 氏
                     司  会   大島 宏 氏

【プログラム・ノート】
先住民の島・サハリン島の近代は、19世紀後半以降、日露間で締結された条約による国境変動と現地行政機関の施策に伴う形での、規模を問わない住民移動が繰り返された歴史であった。そのなかで1905年から1945年にかけて存在した日本統治下の樺太社会は、国際情勢の狭間で翻弄されながらも生き抜いたエスニック・マイノリティ(先住系住民だけではなくヨーロッパ系住民、アジア系住民も含む)と、日本内地から移住し、エスニック・マジョリティとなったヤマト系住民(内地人)からなる「多数エスニック社会」としての実態を有した。本報告は樺太のエスニック・マイノリティに焦点を当て、彼らがどのような環境下で樺太を生き抜いたのかを、主に文化政策の観点から明らかにしようとするものである。
樺太のマイノリティに関する史料は概して少なく、彼らが置かれた環境については現在もその全体像を明らかにすることはできていない。そうしたなかで比較的史料が残されている先住民については、テッサ・モーリス=鈴木が『辺境から眺める アイヌが経験する近代』みすず書房(2000年)で日本とロシアの先住民政策の比較という観点から近代国家による先住民族に対する統合と排除の論理を提示した。その後、田村将人は「樺太庁による樺太アイヌの集住化」『千葉大学ユーラシア言語文化論集』5(2002年)以降、樺太における先住民政策に関する一連の研究を発表し、その特徴を北海道との異同も交えて検討した。その他のエスニック集団については三木理史や中山大将などの研究はあるものの、教育などの文化政策については管見の限り限定的で断片的な記録しか見出せていない。
そこで本報告では樺太社会の全体像解明の一助として、エスニック・マイノリティの教育状況の概観を試みる。続いて樺太庁の先住民認識がどのようなものだったのかについて確認した後、1913年から1914年にかけて東海岸のアイヌ村落を調査した「土人事務嘱託」の山元善八による『復命書』を用いて、当時の対アイヌ教育の実態を明らかにする。最後に1925年1月に締結された日ソ基本条約直後のタイミングで樺太庁長官により奏請され、1925年8月に実施された皇太子の樺太行啓において先住民がどのように捉えられていたのかについて見ていく。樺太統治と皇室との関わりに留意しながら当地で少数であったということの意味について考えてみたい。樺太社会とはどのような社会であったのか、そのなかでエスニック・マイノリティがどう生きたのかを歴史に問いかけてみることで、ともすれば埋もれてしまいそうな現象の中に、これからの日本社会について考えていくための示唆を探したいと考えている。
              〔池田裕子氏 記〕

第646回例会(オンライン実施)跡部千慧氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第646回例会>
*日 時:2021年11月27日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年11月24日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「労働史からみた戦後女性教員史の考察:日教組婦人部の産休代替・育児休業制度化過程を中心として」
                                跡部 千慧 氏
                     司  会   前田 一男 氏
【プログラム・ノート】
私は、これまで、戦後の女性教員の動向を労働史に位置づけて研究してきた。今回は、博士論文をもとにまとめた著書『戦後女性教員史』をもとに、これまでの研究を報告し、今後の研究課題を論じていく。
『戦後女性教員史』は、女性教員職において結婚・出産後の継続就労が可能になった過程を、産休代替教員制度と育児休業制度を要求した日本教職員(以下 日教組)婦人部(現 女性部)の労働運動に着目しながら明らかにしたものである。
女性教員は、小学校で1969(昭和44)年度に女性教員率が5割を超えて以来、結婚・出産後も就労継続する労働者として着目されてきた。日教組婦人部は、女性の労働権確立を目指して運動し、その成果として1960年代から1970年代にかけて産前産後休暇(以下 産休)の保障や育児休業が制度化された。高学歴女性が「主婦化」の担い手となった時代の渦中において、女性教員は、こうした制度を利用しながら、その多くが結婚・出産後も継続就労してきたという点において、注目に値する女性労働者群である。
すなわち、女性教員職への着目は、「主婦化」の動きを底流に抱えつつも、他のオルタナティブな展開への可能性を秘めた重要な時代であった1960年代を、相対的高学歴層でありながらも継続就労した層の実態に分け入って把握することになる。これは同時に、教育界の言説とその担い手の経験という、相反する世界を捉えだすことにもつながる。つまり、教育界では、女性労働の実態に先駆けて、1960年代に「女子特性論」が台頭し、「家庭」重視とそのための女子への配慮という言説が強固なかたちでつくりだされていた。学校教育の担い手である女性教員たちはこうした言説に相反して継続就労の道を歩み、1970年代には育児休業制度の制度化も実現させたのである。
この意味において、日教組婦人部の産休保障および育児休業の制度化という運動の達成は重要である。だが、1970年代のウーマン・リブ運動の台頭以降、当時の運動は、母性保護を主張したという運動の象徴的な点だけを捉えられて、男女平等を阻害したという評価を受けてきた。この影響もあってか、日教組婦人部は結成時から、女性教員の継続就労を要求してきた重要なアクターであるにもかかわらず、その運動過程は管見の限り明らかにされてこなかった。
そのため、本書は、日教組婦人部資料および当事者への聞き取り調査によるデータを用いて、女性教員の運動過程を、当時の女性運動を牽引した言説、政党の動向、他の運動の到達点との関係から再構成することを試みた。こうした問題関心から進めた本書の分析結果、本書執筆後に進めてきた研究、および、今後の課題を提示し、皆様からのご意見を賜りたい。
              〔跡部千慧氏 記〕

第645回例会(オンラインで実施) 鳥居和代氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第645回例会>
*日 時:2021年10月23日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年10月20日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「九十九里浜の長期欠席の子どもたち―1950年代の貧困・基地・教育―」
                               鳥居 和代 氏
                     司  会  大島 宏 氏
【プログラム・ノート】
 報告者は、1950年代に全国的に問題となった子どもの長期欠席について、千葉県の銚子市と九十九里浜沿岸の漁業地域を事例に、2015年から継続的に調査研究を進めてきた。その成果については、公益財団法人野間教育研究所の日本教育史研究部門「1950年代教育史」研究部会による共同研究の成果の一部として、本年度(2021年度)末までに紀要が刊行される運びである。今回の報告では、とくに九十九里浜の長期欠席の子どもたちに焦点を当てて、以下の内容を中心に取り扱う予定である。
 第一に、九十九里浜の漁民の労働・生活状況と米軍高射砲射撃演習についてである。太平洋戦争の勃発から戦後にかけての漁業不況や、1948年4月に豊海海岸に設置された米軍高射砲射撃演習場による漁業への影響を明らかにする。長期欠席の子どもたちを多数生み出すことになった漁民層の置かれた実情に迫ろうとするものである。
 第二に、九十九里浜の長期欠席の子どもたちと米軍基地をめぐる問題についてである。漁業を主とする「納屋部落」(海岸部落)と、農業を主とする「岡部落」との間の長期欠席率の落差、長期欠席の子どもの就業状況、そして米軍高射砲射撃演習をめぐって基地周辺の地域や学校において生起していた諸問題を検討する。
 第三に、米軍基地周辺学校の長期欠席状況とその対応についてである。九十九里浜沿岸の豊海は、米軍演習用の諸施設が設置され、射撃危険区域が扇状に広がる始点に位置する町であった。米軍基地を持つ豊海における長期欠席の子どもたちの実態とこれに対する取り組みの一端を、豊海中学校の事例を中心に明らかにする。
 最後に、補論として、米軍基地と周辺地域との関係について触れる。今回の報告で取り上げる豊海と、同じ千葉県内で米軍航空基地となった木更津を比較しつつ、両者の異同を考察する。そのうえで、基地をめぐる子どもと教育の実態解明にあたって何が求められるのかを、今後の課題として指摘したい。
              〔鳥居和代氏 記〕

第644回例会(オンラインで実施) 柏木敦氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第644回例会>
*日 時:2021年7月24日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年7月21日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「小学校における就学の始期・終期弾力化の諸側面」
                                柏木 敦 氏
                     司  会   須田 将司 氏
【プログラム・ノート】
 1875(明治8)年文部省達第1号の学齢規定、そして1900(明治33)年第三次小学校令における学年の始期および終期の規定は、アジア・太平洋戦後の義務教育年限延長による学齢期間の見直しを除いて、原則として変更されることはなく今日に至っている。しかしながら実質的な制度変更は行われなかったものの、アジア・太平洋戦前期、就学の始期・終期を弾力化する二重学年制や学齢の見直しはしばしば検討されている。
 この点に早くから注目し、かつまとまった研究を行ったのは管見の限り渡部宗助であり、渡部『日本における二重学年制の導入・実施に関する歴史的研究』(平成九年度科研費報告書)は、関連する資料を広く収録し、渡部による論考も含まれたこの領域の基礎研究である。報告者は渡部の成果を起点に据えつつ、より踏み込んだ地域資料や制度政策関連史料を検討することよって、二重学年制や学齢の見直しに関する研究を進めている。
 これらいわば学校教育制度、特に初等教育制度の始期と終期との弾力化は、初等教育段階の早期入学・早期卒業、早期進学・早期就業、児童の多様な学習能力に対応することができるなど、その都度目指されたメリットが示されてきた。しかしながら学校教育制度の接続関係の確立、一年進級制の維持、制度変更による費用や教員配置の問題といった現実路線の前に、およそ表だった議論とはならなかった。また全国的な制度政策とは異なる範囲で、それなりに積極的な意図をもって二重学年制を導入した成城小学校や女子学習院においても短命に終わっている。
 とはいえ、日本の初等教育制度史上、それらの議論や試みが無意味であったとはいえない。繰り返し議論されたのは、学年制、学齢の弾力化が、近代学校教育制度の下での〝見果てぬ夢〟であったからということもできよう。であるとすれば、歴史的経験の中で、どのような必要があって学齢や学年の見直しが問題として提起され、またどのような理由からそれらが実現しなかったのか、何が見直しに優先されたか、といったことの検証を重ねる必要がある。
 報告者はこれまで1923(大正12)年から富山市で実施された秋季学年制の導入・廃止に至る経緯、秋季学年の進級状況や卒業者の就労状況、1914(大正3)年、教育調査会において検討された学齢規定の弾力化に関する議論を検討してきた。今回の報告では継続して収集している資料を紹介し、今後の研究展望を示したい。
              〔柏木敦氏 記〕

第643回例会(オンラインで実施) 大森直樹氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第643回例会>
*日 時:2021年6月26日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年6月23日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「1958年の教育課程に関わる政策の研究-保守政党の影響を中心に」
                                大森 直樹 氏
                     司  会   大戸 安弘 氏
【プログラム・ノート】
 日本の教育課程史の中で1958年のもつ意味は大きい。学教法施行規則の改正により、①教科と特別教育活動に、道徳と学校行事を加えた4領域の教育課程の編成が求められるようになり(小学校)、②最低授業時数を定めるようになった。あわせて、指導要領が告示の形式で出されて、③「教育課程の国家基準が明確にされた」とする解説が始まり、④36項目の道徳基準が国定され(同前)、⑤経験学習が系統学習に改められ、⑥祝日の儀式では国旗掲揚と君が代斉唱が望まれるようになった。戦後教育の通史的叙述においても、道徳特設(①)と指導要領告示化(③)については、必ずといっていいほど取り上げられている。
これらは何をもたらしたのか。山住正巳は、③により、指導要領の教科書にたいする拘束力が強化されたとしている(『日本教育小史』)。久保義三も、③により、「国家権力が教育内容に対して、積極的に介入する道が開かれた」と述べている(『昭和教育史』)。米田俊彦は、1950年代に「国の教育政策が政治一般と連動」するようになったことを前提に①③⑥に触れており、1956年の教委法廃止などの史実ともあわせて、「教育に関する合意形成のルールを模索することもなく、対立したまま多数の考え方で制度が構築され、その多くが現在まで機能している」ことを指摘している(『教育史』)。
本報告は、米田の指摘も手がかりにしながら、保守政党の教育課程のあり方への関与が、いつから、どのように進められたのかを明らかにしようとするものである。1950年代は、(1)占領軍が教育課程のあり方に大きな影響力を行使した時期が終わりを告げてから、(2)「自民党に教育政策をまともに論じ政策をリードしていく文教族が誕生」(小川正人『教育改革の行方』)する1960年代後半よりも前の時期に当たる。これまでの通史では、保守政党の教育課程への関与は、1952年12月の「党人文相」岡野清豪による教育課程審議会への諮問から、あるいは、1955年8月の日本民主党の『うれうべき教科書の問題』から、叙述されることが多かった。そのこともふまえて本報告では、1952年11月24日の吉田茂(首相・自由党総裁)を起点とした分析を行う。保守政党の教育政策の輪郭の形成という視点から、19度に及んだ吉田の衆議院における施政演説を概観したとき、同日の施政演説が注目されるからである。教育課程に関わる政策史の再整理により、今日における教育課程のあり方への理解の一助としたい。
              〔大森直樹氏 記〕

第642回例会 前田一男氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第642回例会>
*日 時:2021年5月22日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年5月19日(水曜日)  午後11時59分
*参加方法は、p.3「インターネット上での例会参加の事前登録について」をご覧ください。

*プログラム:
 ☆「教育史研究と教員養成教育との架橋」
                                前田 一男 氏
                     司  会   大戸 安弘 氏
【プログラム・ノート】
方法論を意識した学問研究と、教育現場に力量のある教師を送り出す教員養成とは、どのように「両立」するのであろうか。アカデミズムは学問の論理から教員養成政策への批判を繰り返し、教員養成政策は専門化・高度化を名目に養成カリキュラムへの要請を強めている。この不幸な関係は、近年ますます深刻になりつつあるように思える。教育学が教育実践を意識して実際的にならなければならないと主張されて久しく、一方声高に叫ばれる「実践的指導力」への政策が必ずしも功を奏しているとも思えないからである。双方が課題を抱えながら、それゆえその双方が納得して距離を縮め関係を改善していこうとする見通しも明るいものではない。現実的には免許法の改正に大学が追随させられている現状だけが浮かび上がってくる。
そもそも学問研究と教員養成とが「両立」するとは、どのような内実を指すのであろうか。教育史研究と教育史教育とは、最初から両立しえない課題に苦しんできたところはないであろうか。両立ではなく、それぞれの役割分担が有機的になされるとすれば、何が重要なポイントになるのであろうか。その結節点の論理はどこに求めなければならないのであろうか。これは何も教育史研究に限ったことではなく、教員養成にかかわる他の学問分野も同様の問題を抱えている。将来の教員たる資格を付与する国家的事業に、大学の教員としていかにかかわるのか、自らの専門分野を深めていく研究はその国家的事業にどのような関係に位置づいているのか。それが批判的な立場を内包するときに、それへの説明はいかになされるべきなのか。
学問研究(教育史研究)と教員養成(初等教育実践)との古くて新しい関係づくりの難題を、自らの大学教育実践を総括するひとつの事例として、いくつかの視点から考察しようとするのが、今回の報告の意図である。その視点としては、近年、教職課程における教育史の位置づけの軽視に対して、師範学校カリキュラムではむしろ重視されていた意味をどう考えるか、教育史学会が教員養成を話題にしたがらない事情とその背景にはどのような理由があり、そのことが結果する事態をいかに認識すべきか、自らの教育史実践を検証しながら、そこに教育史研究と教育史研究にかかわるどのような視点・論点が抽出できるのか、またその教育史実践をいかに評価することが妥当なのか。
報告者は、この古くて新しい難問とともに歩んできたことになる。報告者なりに大学教員としての教育実践を総括しなければならない時期に来ているとすれば、自己批判を含めて、その難問へのひとつの事例を紹介しておく義務があるのではないだろうか。
              〔前田一男氏 記〕

第641回例会(オンラインで実施):太郎良信氏の研究発表【プログラムノート】

第641回例会(オンラインで実施):太郎良信氏の研究発表【プログラムノート】
 <第641回例会>
日 時:2021年3月27日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
参加事前登録の締め切り:2021年3月24日(水曜日)  午後11時59分
プログラム:「木村文助研究―生活綴方教育史研究の課題に照らしつつ―」
研究発表者: 太郎良 信 氏
【プログラム・ノート】
1930年代における生活綴方教育史についての先行研究の再検討を意図しつつ、現在取り組んでいることについての報告となる。
1920年代の『赤い鳥』綴方を批判して生まれたとされる生活綴方が、調べる綴方、リアリズム綴方、生活教育への展開、表現技術教育の偏重、学級文化活動というように展開したととらえられてきたといえよう、こうした見方は、生活綴方に関係がありそうなことがらの推移としては一つの描き方となろうが、何をとらえて生活綴方というのかということ自体が問題となる。たとえば、調べる綴方は生活綴方といえるのか、リアリズム綴方は調べる綴方の反省に立つものなのか、北方性教育運動が生活綴方にもたらしたものは何だったのか、学級文集づくりが一時的に高揚して衰退したのは何故だったのかなど、検証すべきことは多い。
こうしたことを念頭におきつつ、今回は、従来『赤い鳥』綴方を代表するものであり、生活綴方に至るよりも前段階の人物として歴史的に位置づけられてきた木村文助(1882-1953)に即して報告する。
論点の一つは、1930年が画期となるか否かということである。波多野完治はそこに画期を認めず、それまでの「生活指導綴方」が調べる綴方として展開していったとみる。これに対して、木村は1930年に階級闘争が高揚してきて綴方にも社会的な関心が反映されるべき時期を迎えた(機械的なプロレタリア綴方を肯定するものではない)ということで画期とみたし、調べる綴方と「生活指導綴方」との連続性を認めてはいなかったということについてである。
もう一つは、生活教育の野村芳兵衛や北方性教育の村山俊太郎が、1836年に至って、1920年代以来の木村文助指導の綴方について意欲(モラル、モーラル)が含まれていることを評価していることについてである。ちなみに、木村の指導した綴方のうちでも代表的な高等科2年女子の「涙」に即して中内敏夫は「メソメソした、そうした意味で即自的なリアリズム作品」(中内敏夫『綴ると解くの弁証法』渓水社、2012年、p.115),「メソメソの生活と表現の論法」(同前書、p.121)として否定的な評価をくだしているものである。
ついでながら、先日、治安維持法違反として検挙された著名な生活綴方関係者に対する地裁の検事聴取書の写しの一部を古書店ルートで入手した。詳細な検討はこれからであるが、先行研究にとどまらず自らにおいても弾圧側の「論理」や「評価」を踏襲している面があるのではないか、共同研究で対処すべきものではないかと思案していることを記しておく。
   〔太郎良信氏 記〕

第640回例会(オンラインで実施):塩原佳典氏の研究発表【プログラムノート】

 <第640回例会>
日 時:2021年2月27日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
参加事前登録の締め切り:2021年2月24日(水曜日)  午後11時59分
プログラム:研究の経過と展望:「土地」に紐付く(囚われる?)歴史研究を顧みる」
研究発表者:塩原 佳典 氏
【プログラム・ノート】
昨春、第30回石川謙賞をありがたく頂戴した。自分には全く過分なことで、身が引き締まる思いである。日本教育史学会のみなさま、そしてこれまでご助言やご批判をくださったみなさまに、まずは御礼を申し上げたい。
本報告は、このたびの受賞にあたり、私のこれまでの研究と今後の展望について論じる機会を与えられたものである。
まずこれまでの研究として、以下の4テーマを紹介したい。
①幕末維新期の地域社会における教育近代化と名望家層の動向
②筑摩県にみる就学告諭の論理と実態:『説諭要略』(1874年)の捉え直し
③明治期の松本地方における公立病院・医学校史:医療環境をめぐる「公」の行方
④幕末維新期信州高島藩の学制改革:在村国学の地域社会史
次に現在取り組んでいる課題として、以下の4テーマを紹介したい。
①学校所蔵文書の研究:高島小学校にみる地域と学校の関係史
②筑摩県下博覧会の捉え直し:「附博覧会」をめぐる願出と許可
③幕末維新期の議事機関における「公議」の形成:松本藩の議事局から筑摩県の下問会議へ
④昭和初期農本主義教育運動の社会・思想史:和合恒男の「瑞穂精舎」
私はこれまで、信州をフィールドとした研究に取り組んできた(おそらくこれからも)。そこで最後のまとめにかえて、こうした「土地」に紐づく(囚われる?)研究を続けていくことについて、若干の考えを述べてみたい。
本報告のとりわけ後半では、つい最近勉強を始めたばかりで、論旨はもとより問いすらあいまいなテーマも少なくない。ひとまずの話題提供として、ご参加のみなさまからコメントをいただければと願っている。
 〔塩原佳典氏 記〕

2020年3月28日(土) 第640回例会:須田将司氏【プログラム・ノート】

日時:2020月3月28日(土曜日)午後3時から5時

会場:立教大学 池袋キャンパス 12号館 地下1階 第2会議室
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1

アクセス:「池袋駅」下車 西口より徒歩約7分

プログラム:大日本青少年団の錬成論―「共励切磋」の提唱と展開―
須田将司 氏(東洋大学)

【プログラム・ノート】
 1941年3月14日に文部省訓令第2号「大日本青少年団ニ関スル件」が発せられた。その第二条には「皇国ノ道ニ則リ男女青少年ニ対シ団体的実践鍛錬ヲ施シ共励切磋不抜ノ国民的性格ヲ錬成」との目的が掲げられた。それは、学校における「基礎的錬成」をベースに、青少年団の「団体的実践鍛錬」によって「共励切磋」を内面化した青少年の形成をめざす構想であった。なかでも「共励切磋」は大日本青少年団独特の用語として、先行研究(上平泰博)では学校教育の「同一年齢」に対し「異年齢の隊組織」を前提とする「別個の教育原理」と指摘されてきた。
 しかしながら、いかなる経緯で登場し、錬成の具体的イメージとして展開が図られたのか、未だ十分に捉えられていない。「共励切磋」が目指した錬成の姿とは、どのような独自性や限界があったのか。
 ヒントとなるのは、文部省訓令第2号の策定当初は「共励切磋」が無く、団体名も「大日本青年団」であったことである。これが「大日本青少年団」と修正されていく過程で、「共励切磋」も入り込んでいる。青年団を青少年団とすべきと修正意見を出したのは、1930年代に学校少年団の組織化を主導してきた帝国少年団協会であった。彼等の少年団論に「共励切磋」のルーツがあるのかどうか、精査が必要である。
 一方、1930年代に報徳教育から派生していった「学校常会」論が、大日本青少年団幹部層により「共励切磋」と重ねて論じられていった。
 これらを「共励切磋」の提唱と展開ともいえる動向を、1930年代の帝国少年団協会の刊行物、1940年代の大日本青少年団の機関誌類、さらには各地の実践報告類などを参照しながら照らし出すことを試みたい。
〔須田将司氏 記〕