日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

日本教育史学会事務局

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人間社会学部現代社会学科上田誠二研究室気付
TEL 03-5981-7531
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例会

日本教育史学会例会の開催

 日本教育史学会の例会は、会報やこのウェブページでお知らせする会場で、8月を除く毎月第4土曜日午後3時に開催されています。一人の報告者が、報告と討議をあわせて合計2時間の持ち時間で行います。通常の学会発表と異なり、充実した時間をつかた研究発表と討議が可能です。
 過去の日本教育史学会の例会記録は、『紀要』掲載の記録や記録のページをご覧ください。

例会の研究発表のご案内

 例会で研究発表を希望する会員は、日本教育史学会事務局にご相談ください。
 例会の研究発表者は、事前に事務局に「発表題目」とそれぞれ800-1000文字程度の「プログラム・ノート」(今回の発表内容の紹介)、800文字以内「発表者のプロフィール」(著書・論文や略歴などの紹介文の原稿)を提出してください。
 提出された発表題目やプログラムノートは、この日本教育史学会ウェブページで公開されます。このページに随時掲載しますので、ご参照ください。会員に送付する会報には発表者のプロフィールも含めた全文を掲載します。
受付 ahsej@ahsej.com【実際の送信はすべて半角英数字にしてください】


会場のご案内(例会開催場所)

 例会会場は、会報やこのウェブページに掲載します。永らく謙堂文庫を石川家のご厚意で使用しておりましたが、現在では立教大学などの大学会議室を借用しております。会場はその都度異なりますので、ご注意ください。
*2021(令和3)年2月からはオンラインでの開催をしております。

例会表示回数の変更
 2016(平成28)年4月より『日本教育史学紀要』第687頁(下記)に掲載のとおり、例会の回数表示を変更いたします。
「二〇一一年度以降の例会回数について、会報の号数と例会の通し回数が一致しない年がある(例会が実質開催されなかった月の存在等による)ことが判明しました。今巻より、例会の通し回数を優先させ、二〇一一年度からの例会回数を以下のように訂正いたします。二〇一一年度(第五四七回~第五五七回)、二〇一二年度(第五五八回~第五六八回)二〇一三年度(第五六九回~第五七九回)。」

活動報告

第654回例会(オンライン実施)宮坂朋幸氏の研究発表【プログラムノート】

<第654回例会>
*日 時:2022年10月22日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年10月19日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「教師」「教員」再考
              宮坂 朋幸 氏
         司  会  小野 雅章 氏

【プログラム・ノート】
 明治5年4月「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」に象徴されるように、明治政府・文部省は「かつて幕藩時代にはこの国の教育思想のなかにほとんど見出すことのできなかった」「教師は養成されるべきものだ」という思想を選び取り、「『師匠』から小学校『教員』の造出への歩みをふみ出した」(寺﨑昌男編『教師像の展開』)。「教師」は養成されるべきものという思想を選択して「教員」の造出に向かった、というこの文章は、この国の「教員養成」の始まりを端的に表現しているともいえる。しかし一方で、「教師」と「教員」の違いには言及されず、「師匠」と「教員」の間に入るはずの「教師」の位置付けも明示されないなど、なぜそう表現できるのかの説明が不足している。2021年刊行の船寄俊雄編『近現代日本教員史研究』は、序章に「教師と教員」という付論を設けてはいるものの、1974年の佐藤秀夫説の「ニュアンスに同意」すると述べながら、「(本書では)厳密な使い分けを徹底しているわけではない」として、その違いについての吟味を留保している。その佐藤秀夫が「明白に使い分けられていた」と指摘する明治初期を対象にした第1章第1節、第2節でも「教師」と「教員」の違いには言及されない。
 果して「教員史」研究にとって、「教師」「教員」の違いを検討することに意味はないのか。本発表では、発表者がかつて研究していた教職者の呼称の変遷とその含意について再検討する。拙論によれば、「教員」は1872(明治5)年「学制」という法令に日本史上初めて規定された呼称であり、それ以前にはほとんど使用例がなかった。それに対して「教師」は「教員」以前から使用例が見られ、先行研究が指摘する「外国人教師」だけでなく、地方には多くの「教師」がいた。さらにさかのぼれば、「教師」以前には「師匠」や「師範」が一般的な呼称であった。
 本発表では日本教育史上のこの流れ、すなわち「師匠」→「教師」→「教員」という登場順序を再検証しながら、それぞれの呼称の特徴について考察する。  〔宮坂朋幸氏 記〕

第651回森透氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第651回例会>
*日 時:2022年5月28日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年5月25日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「私の研究の歩み~自由民権から大正新教育~」
                            森  透 氏
                     司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
私は古稀となり、昨年2021年3月末で福井大学と福井医療大学を退職した。この度、今までの研究の歩みを振り返りこれからの人生の展望を描いてみる機会を与えていただき感謝している。昨年4月の日本教育史研究会機関紙『日本教育史往来』251号(2021年4月30日)にも「教育史と私―『窓ぎわのトットちゃん』と教育史研究」と題する省察を書いているので参照されたい。私は、卒論、修論とも「自由民権運動と教育」を対象としてきた。卒論は東京教育大学教育学部で大学紛争が激しかった時期に、教科書裁判で著名な家永三郎先生に若干お世話になり「植木枝盛の教育思想」というタイトルで、その後修論は自由民権研究を継続し長野県の事例で「松本奨匡社の自由民権運動と教育-『基本的人権』論と人間像を手がかりとして-」とした。ここでの問題意識は、西欧的な近代的人権論や教育的価値を目指しつつも、他方で日本的な儒学思想や伝統思想との相克という点も追究したいテーマであった。当時、色川大吉の『明治精神史』や民衆史の安丸良夫、鹿野政直などの文献を読んでいた。その後、茨城県や栃木県の自由民権の事例研究を行い、35歳で福井大学に着任してからは越前の自由民権運動(杉田定一)をまとめた。大学では授業で日本教育史と外国教育史の両方を担当しなければならないという状況や、現実の子どもたちの豊かな学びを追究したいという思いもあり、歴史研究では明治期から大正期に時期を拡げたことで、福井県三国の小学校の実践と出会うことになる。三国尋常高等小学校(現・三国南小学校)が当時米国の教育者ヘレン・パーカストが訪問した学校であったこと、「自発教育」という実践を三好得恵校長が推進し全国的に著名な学校であったことなどがわかってきた。三好の次男・秋田慶行氏への聞き取り調査も行った。三国南小学校には明治・大正期からの学校日誌・学籍簿等が大切に保存され、それらを感動をもって見させていただいたことを思いだす。これらの歴史研究と同時並行して、当時の小学校では「総合学習」に注目が集まり長野県伊那市の伊那小学校の「総合学習」の研究大会に毎年学生と一緒参加するようになった。私の中では、大正期の教師たちの子どもたちの学びの支援と現代の支援が重なった思いであり、過去と現代の往復運動を常に心がけていたように記憶している。この伊那小の「総合学習」の源流が、長野師範附属小の「研究学級」の総合実践(淀川茂重)にあることがわかり、今の信州大学教育学部附属長野小学校の総合実践につながっていることに衝撃的な感動を味わった。
その後、歴史研究からは離れてしまった感があり、福井大学教職大学院の担当スタッフとして現場の先生方との相互の学び合いに没頭していった。夜行バスで学生や院生を連れての伊那小学校への毎年の参観は比較的最近まで続けていたように思う。古稀が近くなり今までの研究を著作にまとめたいと考え、2020年5月に『教育の歴史的展開と現代教育の課題を考えるー追究―コミュニケーションの軸からー』(三恵社)という単著を初めて出版した。本書は、3つの柱(歴史研究、教職大学院、養護教諭養成)から構成されている。サブタイトルの「追究―コミュニケーション」は今までの研究を串刺しにする視点と考えた。              〔森透氏 記〕

第653回例会(オンライン実施)亀澤朋恵氏の研究発表【プログラムノート】

 <第653回例会>
*日 時:2022年7月23日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年7月20日(水曜日)  午後11時59分

*プログラム:
 ☆「文検図画科」の研究
                                亀澤 朋恵 氏
                     司  会   高橋 陽一 氏

【プログラム・ノート】
 戦前期、日本の中等教員養成は高等師範学校、女子高等師範学校以外にも多様なルートが存在し、さまざまな背景をもった教員が教育現場を支えていた。戦前期の中等教員養成の全体像を明らかにするためには、その多様なルートの一つである国家検定試験制度「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(通称「文検」)を解明することの必要性が長らく指摘されてきた。「文検」は「独学者の登竜門」といわれ、試験の合格率は10%前後の難関であった。佐藤由子による「地理科」(1988年)の研究を皮切りに、寺﨑昌男・「文検」研究会によって本格的に研究が進められ、1997年にはその研究成果として『「文検」の研究――文部省教員検定試験と戦前教育学』(学文社)が公刊された。さらに2003年には分析対象の学科目を拡充し、『「文検」試験問題の研究――戦前中等教員に期待された専門・教職教養と学習』(学文社)が公刊されたが、未検討の学科目を残したまま研究は休止された。その後、寺﨑らの研究を継承し、未検討の学科目の研究が進められてきているが、全体像は未だ明らかになっていない。本報告が対象とするのは、未検討の学科目の一つ「図画科」である。「図画科」を明らかにすることにより「文検」研究を深め、将来的には教員養成の歴史的展望に寄与するものと考える。
 美術教育史的な観点からも、「文検図画科」は戦前期の中等図画教育の実態を明らかにするための一つの手掛かりになるであろう。「文検図画科」出身の図画教員は、中等図画教育界において図画教員養成の専門課程が置かれていた東京美術学校、東京高等師範学校出身の教員とならび、「我国中等図画教育界の三角形の一頂点」と自他ともに認める高い実力をもつ教員であったといわれる。彼・彼女らの「文検」受験の動機はどのようなものであったのか。図画教育に関するどのような力量を持っていたのか。その力量形成の過程(絵画学習の経緯、受験参考書や出版物、学習サークルなどの受験コミュニティ等)の内実等を明らかし、「文検図画科」が図画教員、図画教育界にとってどのように受け止められていたのか、検討を試みたい。本報告において「文検図画科」におけるこれまでの研究と課題を示し、皆さまの議論のきっかけになれば幸いである。
              〔亀澤朋恵氏 記〕

第652回例会(オンライン実施)八鍬友広氏の研究発表【プログラムノート】

<第652回例会>
*日 時:2022年6月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年6月22日(水曜日)  午後11時59分
*参加方法は、p.3「インターネット上での例会参加の事前登録について」をご覧ください。

*プログラム:
☆近世越中氷見町における一商人の生活史とその歴史的位相-田中屋権右衛門『応響雑記』の資料的可能性-
                                          八鍬 友広氏

【プログラム・ノート】
本発表は、越中射水郡氷見町における田中屋権右衛門の生活史の一端について、同人の記した『応響雑記』をもとに紹介し、同資料が有する多面的な可能性、および同資料にもとづいた今後の研究課題について検討するものである。
 『応響雑記』は、田中屋権右衛門が記した日記である。文政10年(1827)5月28日から書き始め、安政6年(1859)10月17日に擱筆している。その間32年におよび、権右衛門24歳から56歳までの記録となっている。
『応響雑記』には、権右衛門がおこなったさまざまな文化的な営為や娯楽、観覧した興行などについて詳細に記されている。文化的な活動は、俳諧、和歌、漢詩、狂歌、絵画、謡、生け花など多岐にわたっており、観覧した興行も軍書語り、能、浄瑠璃、芝居、相撲など、これまた多岐にわたっている。関心をもった書籍についての記録もあり、また儒学に関する講釈を聴聞した様子なども記している。
 文化的な活動だけでなく、日常的に接した情報や人間関係、仕事での金沢への出張などについても克明に記されており、それだけに『応響雑記』は、これまでもさまざまな視点からの研究に活用されてきた。たとえば、有感地震データベースなどへの活用は、その一例と言える。また竹下喜久男『近世地方芸能興行の研究』(清水堂出版1997年)や、梶井一暁「近世僧侶における町人との交わり」(辻本雅史編『知の伝達メディアの歴史研究』思文閣出版2010年)などをはじめとする、数々の研究において、『応響雑記』は取り上げられてきた。
 本発表においては、このような『応響雑記』の一端を紹介しつつ、個々の領域ごとの活動の記録としてだけでなく、一人の商人の生きた過程を、ある程度包括的に知ることのできる稀有な記録として、『応響雑記』の有する資料的な可能性を示したい。そしてそのような資料によって理解される一人の商人の生活史を、封建制や身分制といった社会編成の内実的な変容過程のなかに位置づけてみる可能性についても検討してみたいと考えている。              
                                   〔八鍬友広氏  記〕

第650回例会(オンライン実施)七木田文彦氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第650回例会>
*日 時:2022年3月26日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年3月23日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「「保健科」の誕生は何を意味したのか -経験と分断された近代的身体の行方-」
                                七木田 文彦 氏
                     司  会   上田 誠二 氏

【プログラム・ノート】
 戦後教育改革において誕生した「保健科」は、「体育科」との合科型教科「保健体育科」として発足した。「保健科」は、誕生当初から、①担当教員の課題、②実施率の低迷、③学びの質の保障等、数々の課題を負っており、課題が相互に関係しているがゆえに、後の改革を困難にした。新設された教科は、授業における子ども一人ひとりの学びのあり方を探求する以前に、先の課題解決に取り組まなければならない状況にあった。教科発足から70年を経た今日においても、発足当時の課題は解決されることはなく現在に至っている。
 課題の解決を見ない理由は、教科としての構造的欠陥によるものなのか、機能面における運用上の問題か、解決を目指す実践や研究のアプローチの問題か、政治・政策上の力学の問題か、または、その何れもか、本報告では、合科型教科「保健体育科」誕生の歴史を振り返りながら理由を顕在化してみたい。
 「保健科」誕生の制度史としては、1920年代から1947年までを対象に、時期を三つに分けて報告する。第一に、戦前昭和期に展開された健康教育運動(教科成立の基盤形成期)、第二に、健康教育運動の戦時下改革期、第三に、戦後教育改革によって学校体育指導要綱(1947年)が示されるまでの政策形成期についてである(思想的、構造的分析については、この時期に限定せず、「健康教育」として検討する)。
 戦後「保健科」誕生の意味は、医学の成果により疾病に対する罹患の予測可能性が明確になり、これを伝達することは、予防や健康増進を介して現在の生活を規定することでもあった(人々の生活は均質化された健康的ライフスタイルの確立を意味していた)。つまり、特定の病弱児童から予防的にコントロールできる可能性をもった一般児童を対象に、健康で合理的な生き方を推進する機能として、また、後の健康的生活を積極的に獲得するために導入されたのである。言い換えるならば、予防医学の知見から「演繹される生活態度の諸原理(医学や科学)に従属させようとする個人」を「健康教育」教科を通して成立させている。近年の行動科学化する「保健科」はこれを一層促進しており、「高度な合理化と自己コントロール」が支配する社会への適応を迫っている。
 以上の教科形成の背景で、これを支え、補完・推進したのが学校看護婦や養護訓導といった人たちである。学校において子どもの身体管理を担った同職の誕生にも紆余曲折の歴史がある。適宜、これにもふれながら報告する。                                          〔七木田文彦氏 記〕

第649回例会(オンライン実施)坂本紀子氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第649回例会>
*日 時:2022年2月26日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年2月23日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「近代北海道における移住民と学校」
                                坂本 紀子 氏
                     司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
 日本の教育、とりわけ学校教育は政府が発した制度、政策によって進められてきた歴史を持つ。そのため、国内のほとんどの地域の教育は、政府が発信した教育法令や規則の条文にある内容どおりに(均一に)施行された、というイメージが強い。そして、そのような地域が“一般”的な教育の歴史過程にあり、それ以外は“特別”であると捉えがちである。しかし、例えば、近代の地方制度には市制町村制以外に、北海道町村制や沖縄県及び島嶼町村制もあり、多元的に地方統治が実施されてきたのである。教育についても、また、均一、画一的な内容で国民統合が目指されつつも、多様な実施形態が準備され提供されていたと考える。だからこそ、地域を対象としてそこで展開された教育実態を丁寧に紐解き、解明することが必要であると発表者は考えている。
 発表者は、2004年以降、地方制度においても教育制度においても、国内の多くの地域とは異なる内容が施行された北海道の教育の歴史的解明に取り組み、北海道移住民と学校との関わりを、北海道庁設置後の地域の実態解明をとおして検討してきた。例会では、1886年から1945年までの時期を一区切りとして、日本の近代教育に準備された、一実施形態である北海道の教育制度と、その制度下で展開された地域の教育実態の特徴を整理した内容を報告する。
 北海道庁設置後に「開拓」事業は本格化し、北海道に移住する人びとが増加する。1887年には第一次小学校令を受けて、北海道は「小学校規則及小学簡易科教則」を施行する。1895年には第二次小学校令を受けて「市制町村制を施行せさる地方の小学教育規程」を実施することを公布する。そして1898年には「簡易教育規程」を、1903年には「特別教育規程」を施行した。それら実施された内容は、北海道の「開拓」事業を優先する教育方針、実践内容、そして学校の在りようを示すものであった。その教育制度の下での北海道移住民による学校設置維持過程、そして子どもたちの実態の特徴を、報告する。
             〔坂本紀子氏 記〕

第648回例会(オンライン実施)木村政伸氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第648回例会>
*日 時:2022年1月29日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年1月26日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「西鶴が描いた17世紀の子育てと学び」
                                木村 政伸氏
                     司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
 近世が「文字社会」となったことは、かなり浸透した見方だといえようか。その契機は経済活動の活発化や統治上の文書主義などいろいろ考えられる。では、読み書き能力が広く浸透することで社会や人々の生活はどう変わったのであろうか。こうした問いに応えるのは容易ではない。地方文書などは統治・被統治の関係性の中で作成されたものであり、教訓書などはあくまで道徳を説くものであることから、ナマの生活をそこから読み解くのは難しい。日記なども可能性があるが、量的質的な限界が横たわっている。
 そこで注目したのは、文学作品である。とりわけ17世紀末に大量の作品群を刊行し、多くの読者を獲得した井原西鶴の作品群に着目した。西鶴の作品は、町人、武家に限らず、また男女の両方にわたっており、きわめて多様である。これらの作品群には、主に三都で暮らす人々の姿が豊かに描かれているが、とりわけ重要なのは人々の感情や考えを知ることができることである。西鶴の作品を紐解くことから、子育てや学びなどの実際の姿について多くの知見を得ることができるのではと考えた。
 こうした着想から、すでに「西鶴作品にみる17世紀後期の識字能力と教養の形成」(『九州大学大学院教育学研究紀要』第20号、2018)、「一七世紀における遊女の教養形成と文字文化」(『日本教育史学会紀要』第10号、2020)、「『子はうき世のほだし』考-西鶴作品から見る子ども忌避論―」(『日本の教育史学』第64集、2021)を発表した。
 この一連の論文の中で、西鶴作品が17世紀後期という時代性をよく表現していると考えられる現象や、文字社会化していく都市部の生活の変化などを明らかにしてきた。それらの中は、文学作品故に可能となったものもある。
 もちろん、文学に書かれたものはまるごと現実に発生した現象ではないことはいうまでもなく、文学作品から歴史を描く際には、十分な検証が必要である。しかし文学であるから知れる人々の感情や思考を読み取ることも可能であろう。
 今回は、このようにこれまで続けてきた西鶴作品の分析から見えてきた研究の可能性と課題について、報告を行いたい。
              〔木村政伸氏 記〕

第647回例会(オンライン実施)池田裕子氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第647回例会>
*日 時:2021年12月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年12月22日(水曜日)  午後11時59分
*参加方法は、p.3「インターネット上での例会参加の事前登録について」をご覧ください。

*プログラム:
 ☆「樺太のマイノリティはどう生きたのか」
                                池田 裕子 氏
                     司  会   大島 宏 氏

【プログラム・ノート】
先住民の島・サハリン島の近代は、19世紀後半以降、日露間で締結された条約による国境変動と現地行政機関の施策に伴う形での、規模を問わない住民移動が繰り返された歴史であった。そのなかで1905年から1945年にかけて存在した日本統治下の樺太社会は、国際情勢の狭間で翻弄されながらも生き抜いたエスニック・マイノリティ(先住系住民だけではなくヨーロッパ系住民、アジア系住民も含む)と、日本内地から移住し、エスニック・マジョリティとなったヤマト系住民(内地人)からなる「多数エスニック社会」としての実態を有した。本報告は樺太のエスニック・マイノリティに焦点を当て、彼らがどのような環境下で樺太を生き抜いたのかを、主に文化政策の観点から明らかにしようとするものである。
樺太のマイノリティに関する史料は概して少なく、彼らが置かれた環境については現在もその全体像を明らかにすることはできていない。そうしたなかで比較的史料が残されている先住民については、テッサ・モーリス=鈴木が『辺境から眺める アイヌが経験する近代』みすず書房(2000年)で日本とロシアの先住民政策の比較という観点から近代国家による先住民族に対する統合と排除の論理を提示した。その後、田村将人は「樺太庁による樺太アイヌの集住化」『千葉大学ユーラシア言語文化論集』5(2002年)以降、樺太における先住民政策に関する一連の研究を発表し、その特徴を北海道との異同も交えて検討した。その他のエスニック集団については三木理史や中山大将などの研究はあるものの、教育などの文化政策については管見の限り限定的で断片的な記録しか見出せていない。
そこで本報告では樺太社会の全体像解明の一助として、エスニック・マイノリティの教育状況の概観を試みる。続いて樺太庁の先住民認識がどのようなものだったのかについて確認した後、1913年から1914年にかけて東海岸のアイヌ村落を調査した「土人事務嘱託」の山元善八による『復命書』を用いて、当時の対アイヌ教育の実態を明らかにする。最後に1925年1月に締結された日ソ基本条約直後のタイミングで樺太庁長官により奏請され、1925年8月に実施された皇太子の樺太行啓において先住民がどのように捉えられていたのかについて見ていく。樺太統治と皇室との関わりに留意しながら当地で少数であったということの意味について考えてみたい。樺太社会とはどのような社会であったのか、そのなかでエスニック・マイノリティがどう生きたのかを歴史に問いかけてみることで、ともすれば埋もれてしまいそうな現象の中に、これからの日本社会について考えていくための示唆を探したいと考えている。
              〔池田裕子氏 記〕

第646回例会(オンライン実施)跡部千慧氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第646回例会>
*日 時:2021年11月27日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年11月24日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「労働史からみた戦後女性教員史の考察:日教組婦人部の産休代替・育児休業制度化過程を中心として」
                                跡部 千慧 氏
                     司  会   前田 一男 氏
【プログラム・ノート】
私は、これまで、戦後の女性教員の動向を労働史に位置づけて研究してきた。今回は、博士論文をもとにまとめた著書『戦後女性教員史』をもとに、これまでの研究を報告し、今後の研究課題を論じていく。
『戦後女性教員史』は、女性教員職において結婚・出産後の継続就労が可能になった過程を、産休代替教員制度と育児休業制度を要求した日本教職員(以下 日教組)婦人部(現 女性部)の労働運動に着目しながら明らかにしたものである。
女性教員は、小学校で1969(昭和44)年度に女性教員率が5割を超えて以来、結婚・出産後も就労継続する労働者として着目されてきた。日教組婦人部は、女性の労働権確立を目指して運動し、その成果として1960年代から1970年代にかけて産前産後休暇(以下 産休)の保障や育児休業が制度化された。高学歴女性が「主婦化」の担い手となった時代の渦中において、女性教員は、こうした制度を利用しながら、その多くが結婚・出産後も継続就労してきたという点において、注目に値する女性労働者群である。
すなわち、女性教員職への着目は、「主婦化」の動きを底流に抱えつつも、他のオルタナティブな展開への可能性を秘めた重要な時代であった1960年代を、相対的高学歴層でありながらも継続就労した層の実態に分け入って把握することになる。これは同時に、教育界の言説とその担い手の経験という、相反する世界を捉えだすことにもつながる。つまり、教育界では、女性労働の実態に先駆けて、1960年代に「女子特性論」が台頭し、「家庭」重視とそのための女子への配慮という言説が強固なかたちでつくりだされていた。学校教育の担い手である女性教員たちはこうした言説に相反して継続就労の道を歩み、1970年代には育児休業制度の制度化も実現させたのである。
この意味において、日教組婦人部の産休保障および育児休業の制度化という運動の達成は重要である。だが、1970年代のウーマン・リブ運動の台頭以降、当時の運動は、母性保護を主張したという運動の象徴的な点だけを捉えられて、男女平等を阻害したという評価を受けてきた。この影響もあってか、日教組婦人部は結成時から、女性教員の継続就労を要求してきた重要なアクターであるにもかかわらず、その運動過程は管見の限り明らかにされてこなかった。
そのため、本書は、日教組婦人部資料および当事者への聞き取り調査によるデータを用いて、女性教員の運動過程を、当時の女性運動を牽引した言説、政党の動向、他の運動の到達点との関係から再構成することを試みた。こうした問題関心から進めた本書の分析結果、本書執筆後に進めてきた研究、および、今後の課題を提示し、皆様からのご意見を賜りたい。
              〔跡部千慧氏 記〕

第645回例会(オンラインで実施) 鳥居和代氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第645回例会>
*日 時:2021年10月23日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2021年10月20日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆「九十九里浜の長期欠席の子どもたち―1950年代の貧困・基地・教育―」
                               鳥居 和代 氏
                     司  会  大島 宏 氏
【プログラム・ノート】
 報告者は、1950年代に全国的に問題となった子どもの長期欠席について、千葉県の銚子市と九十九里浜沿岸の漁業地域を事例に、2015年から継続的に調査研究を進めてきた。その成果については、公益財団法人野間教育研究所の日本教育史研究部門「1950年代教育史」研究部会による共同研究の成果の一部として、本年度(2021年度)末までに紀要が刊行される運びである。今回の報告では、とくに九十九里浜の長期欠席の子どもたちに焦点を当てて、以下の内容を中心に取り扱う予定である。
 第一に、九十九里浜の漁民の労働・生活状況と米軍高射砲射撃演習についてである。太平洋戦争の勃発から戦後にかけての漁業不況や、1948年4月に豊海海岸に設置された米軍高射砲射撃演習場による漁業への影響を明らかにする。長期欠席の子どもたちを多数生み出すことになった漁民層の置かれた実情に迫ろうとするものである。
 第二に、九十九里浜の長期欠席の子どもたちと米軍基地をめぐる問題についてである。漁業を主とする「納屋部落」(海岸部落)と、農業を主とする「岡部落」との間の長期欠席率の落差、長期欠席の子どもの就業状況、そして米軍高射砲射撃演習をめぐって基地周辺の地域や学校において生起していた諸問題を検討する。
 第三に、米軍基地周辺学校の長期欠席状況とその対応についてである。九十九里浜沿岸の豊海は、米軍演習用の諸施設が設置され、射撃危険区域が扇状に広がる始点に位置する町であった。米軍基地を持つ豊海における長期欠席の子どもたちの実態とこれに対する取り組みの一端を、豊海中学校の事例を中心に明らかにする。
 最後に、補論として、米軍基地と周辺地域との関係について触れる。今回の報告で取り上げる豊海と、同じ千葉県内で米軍航空基地となった木更津を比較しつつ、両者の異同を考察する。そのうえで、基地をめぐる子どもと教育の実態解明にあたって何が求められるのかを、今後の課題として指摘したい。
              〔鳥居和代氏 記〕