日本教育史学会

日本教育史学会は1941年から毎月の例会を開始し、石川謙賞の授与と日本教育史学会紀要の刊行を行う、日本の教育の歴史についての学会です。

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活動

11月25日第664回例会(オンライン実施)宮里崇生氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第664回例会>
*日 時:2023年11月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2023年11月22日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
 ☆:占領初期沖縄教育の基盤の形成過程について――志喜屋孝信の教育思想に着目して――
                        宮里 崇生 氏
                  司  会   小野 雅章 氏
【プログラム・ノート】
本発表の目的は、戦前から占領初期まで一貫して沖縄教育界で指導的立場にいた志喜屋孝信に焦点を当て、志喜屋の公私における主張からその教育構想を捉え、占領初期沖縄における教育方針の内実を明らかにすることにある。
先行研究では占領初期沖縄の教育方針について、1946(昭和 21)年沖縄文教局が示した『初等学校教科書編纂方針』、とりわけ文書中の「沖縄の道」に焦点を当てた分析がなされている。「沖縄の道(新沖縄建設の精神)」に言及 している研究として、森田俊男(1966)、百次智仁(2014)、萩原真美(2021)がある。特に、最新の研究成果である萩原真美『占領下沖縄の学校教育―沖縄の社会科成立過程にみる教育制度・教科書・教育課程―』(六花出版)は「沖縄の道」について、米軍側の「本土と沖縄の切り離し」という目的を、沖縄側が「沖縄(略)固有の歴史を尊重すること」と捉えなおし、「従来とは異なる新たな沖縄を建設」するという意味へ「置き換え」たのではないか、と指摘する。「沖縄の道」について、沖縄側の主体性に着目した重要な研究であり、筆者も萩原(2021)の指摘に同意するが、史料的限界もあって推測の域を出ていないといえる。
これに対して本発表では、当該期沖縄における復興事業全体の指導的立場にいた志喜屋孝信に着目し、その公私における主張から教育構想を捉えることで、占領初期沖縄の教育方針の内実を明らかにする。換言すれば志喜屋の主張から、従来の占領者対被占領者という追従の図式では見えづらかった、教育方針の形成過程及び具体的内容について動態的に明らかにしていきたい。
志喜屋孝信は、1884(明治17)年中頭郡具志川間切(現うるま市)に生まれ、沖縄県立第一中学校、広島高等師範学校を卒業ののち、県外にて中学校教員となる。1911(明治44)年に沖縄県立第二中学校に転任し、1924(大正13)年には同校校長に、1936(昭和11)年には私立開南中学校を設立し、同校の校長となっている。そして1945(昭和20)年には米軍による要請によって沖縄側行政代表者となり、1950(昭和25)年に退任するが、同年に琉球大学初代学長に就任している。このように志喜屋孝信は、戦前期は県内随一の教育指導者であり、占領初期は復興事業全体の指導者であった。これまで同氏の評価は、専ら占領初期の行政指導者としての側面に偏り、またその際も米軍政府に追従した「御しやすい人物」とされている。しかし私的主張を見れば、葛藤や妥協、計画的な公私の使い分けが読み取れる。
本発表では、まず志喜屋孝信の教育構想について『志喜屋孝信関連文書群』を主として当該期の新聞及び回顧録等から捉え、沖縄指導者がどのように敗戦を経験し、占領者と対峙し、葛藤や対立、妥協や協調を経て復興に従事していったのかを明らかにする。その上で占領期沖縄の教育方針の形成過程とその具体的内容を明らかにする。
当日は、補助資料として『志喜屋孝信関連文書群』調査報告書を配布させて頂く。会員の方々には、同書についても併せてご検討して頂ければ幸いである。
                〔宮里崇生氏 記〕

10月28日第663回例会(オンライン実施)小野雅章氏の研究発表【プログラム・ノート】

<第663回例会>
*日 時:2023年10月28日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2023年10月25日(水曜日)  午後11時59分
*プログラム:
近現代天皇制と学校儀式の関係史概観――学校儀式の戦前・戦後――
    小野 雅章 氏
司  会  高橋 陽一 氏

【プログラム・ノート】
 本発表の目的は、報告者が本年4月に公刊した『教育勅語と御真影――近代天皇制と教育』(講談社現代新書、2023年)により得た成果と残された課題とを整理して、今後の報告者自身の研究の方向性一端を示すことにある。『教育勅語と御真影――近代天皇制と教育』では、幕末維新期から現代まで、天皇・天皇制を軸にして、この国の教育の史的展開の通史的展望を試みたが、史料の発掘を含めて精緻に論証するには至っていない点もある。なかでも、学校儀式を中心とする学校行事の通史的な分析はこれからの課題になっている。
 近代学校制度成立以降、少なくとも教育勅語発布頃までは、学校儀式は天皇・天皇制教化のためだけのものではなく、それぞれに別途の目的があった。ところが、教育勅語発布以降、祝日大祭日儀式が法令によりその実施が制度化し、1900年の小学校令施行規則第28条により、三大節学校儀式が定型化されると、それ以外の学校儀式、すなわち、卒業式、入学式、始業式、終業式等の次第もこれに準じるものへと再編成された。
本発表では、上述の内容を確認したうえで、1900年代以降の主として小学校レベルの学校における天皇・天皇制教化のための学校儀式を中心とする学校行事が、それぞれの時代の要請による教育状況の変化に対応して、どの世のように変化したのか、この点について、学校儀式の「道具立て」としての教育勅語他教育関係詔勅、御真影、国旗、国歌ほか儀式用唱歌などの取り扱いなどを視野に入れつつ、これから進めようとする研究の展望を示したい。多くの方からの有益な批判を期待している。
 基本文献や基本史料を検討している段階ではあるが、戦時体制下の学校を「場」とする天皇・天皇制教化の方式は、1920年代の教化総動員運動を下敷きしつつ、1930年代の国民精神総動員運動として、天皇信仰を強く強制するようになり、学校行事もその方向で改編されたとの仮説を持っている。当日は、戦後の学校行事に関しても論究できたらと思っている。
              〔小野雅章氏  記〕

7月22日第662回例会(オンライン実施)松尾由希子氏・山下廉太郎氏の研究発表【プログラム・ノート】

 <第662回例会>
*日 時:2023年7月22日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム:
 ☆「教育令期」における小学校教員のキャリア―長崎県の「履歴史料」より
               松尾由希子 氏  山下廉太郎 氏
        司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
 近年期待される教員の資質能力のキーワードの1つとして、「学び続ける教員」があげられる。例えば中央教育審議会答申では、「教員が高度専門職業人として認識されるために、学び続ける教員像の確立が強く求められる」(2015年12月)、「令和の日本型学校教育」を担う教員として「教職生涯を通じて学びつづける」点(2022年12月)が示された。今回の報告は、明治期において教員制度の整備が進んだ時期といわれる「教育令期」の小学校教員の教職キャリア、具体的には任用時、任用以後の学習履歴及び職務歴の特徴について、長崎県小学校教員の「履歴史料」を用いて報告する。教員として任用される前後の学問的な研鑽、転退職にともなう職業的な経験の蓄積をキャリア形成ととらえて報告する。主な構成は以下のとおり。1「履歴史料」の特徴、2小学校男性教員の教職キャリア、3小学校女性教員のキャリア(任用時)
 明治期の教員のキャリア形成に関わる研究は、主に教育制度史の領域で教員資格に着目して進められてきた。ただし、制度の体系は必ずしも実態を反映しないため、教員のキャリア形成は制度と実態の双方から検討する必要がある。また、教員のキャリア形成について、実証的な研究が存在するものの、そのほとんどが任用までに求められたキャリアの解明にとどまっている。これまでの研究は終身雇用を前提とした単線型・職域内のキャリアパスを想定していたためだろう。本報告では、教員が転退職を繰り返しながらキャリア形成をしていく実態も示したい。さらに、本報告ではこれまでほとんどとりあげられてこなかった女性教員のキャリアにも着目する。文部省は女児の就学率向上のために女性教員が必要であると考えていたが、女性蔑視や女性教員に対する厳しい評価もあったためか、教員不足は解消しなかった。そのような中、どのようなキャリアを有する女性が小学校教員になるのか。男性教員のキャリアとも比較しながら、少ない事例になるが特徴を示す。
 本報告は「履歴史料」を用いた研究になる。「履歴史料」とは、「当時の学業、賞罰等の経歴及び出自について公的に記録・証明する文書」(池田雅則、松尾、山下2016)である。今回の報告では「履歴史料」の中でも、履歴書と辞職願をとりあげる。報告者は「履歴史料」の可能性や効果的な活用について検討、模索しているため、当日は詳細に史料を提示しながら報告したい。(松尾由希子記)
         〔松尾由希子氏・山下廉太郎氏 記〕

6月24日第661回例会(オンライン実施)軽部勝一郎氏の研究発表【プログラムノート】

<第661回例会>
*日 時:2023年6月24日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム:
☆1880年代の徳島県にみる中学校の形成過程と就学の動向
                           軽部勝一郎 氏
                司  会  須田 将司 氏

【プログラム・ノート】
 本発表は、1880年代の徳島県における中学校の形成過程に焦点を当て、中学校の形成が人々の就学行動に与えた影響を検討しようとするものである。
 本発表で取り上げる徳島県は、その県域が旧徳島藩領にあたり、1870年代から80年代にかけての中学校形成も、旧徳島藩の教学の影響下に進められた。中学校の展開が、旧藩庁所在地の徳島のほか、旧藩以来の拠点である、脇、富岡、川島にみられたことがそのことを物語る。
 一方で、藍の生産に代表されるように活発な経済活動を展開する商人たちの動向も、中学校の形成過程を考えるうえでは看過できない。とりわけ郡部の中学校を維持するうえで商人たちの経済的援助は欠かせないものであり、彼らの動向が徳島県における中学校形成の方向性を形作ったともいえる。また、徳島女学校が1880年代を通して維持されたことも、女子教育への彼らの関心が少なからず影響していた。藩政期以来の士族層と商人層の「つかず離れず」の関係性を読み解くことが、この地の中学校形成過程を明らかにする鍵ともいえる。
 このような視点に立って、中学校の形成が人々の就学行動に与えた影響を検討していきたい。本発表は『明治前期中学校形成史府県別編Ⅴ南畿南海』所収の拙稿をもとに行うが、徳島女学校が県内の小学生を対象に行った技芸作品のコンクールである「奨芸会」にかかわる『普通新聞』の記事や、富岡や脇の中学校にかかわる史料を新たに用いることで、「就学」に対する人々の意識を醸成する要素の1つとして、中学校の形成という事象が存在したことを指摘できればと考えている。
 これまで発表者は、自由民権期に小学校設立にかかわった人々や、第一次小学校令期に小学簡易科を設置、維持した人々に焦点を当て、前近代から近代への転換期における民衆の教育要求の本質を明らかにする作業を試みてきた。それはいわば初等教育を指標に民衆の教育要求を検討する作業であった。前任地熊本にいる折に、神辺靖光氏が進めてこられた中学校形成史研究に参加する機会を得て、中等教育を指標として転換期の教育の実相を探ることの重要性を新たに知ることになり、昨年公刊された『明治前期中学校形成史府県別編Ⅴ南畿南海』の執筆を通して、こうした問題意識をさらに強く抱くことになった。本発表を機に、転換期に生きる人々の「就学」に対する意識を、初等教育に加えて、新たに中等教育を指標として明らかにする作業に取り組んでいきたいと考えている。              
             〔軽部勝一郎氏  記〕

5月27日第660回例会(オンライン実施)山口刀也氏の研究発表【プログラムノート】

5月27日第660回例会(オンライン実施)山口刀也氏の研究発表【プログラムノート】
<第660回例会>
*日 時:2023年5月27日(土曜日)  午後3時~5時(オンラインで実施)
*プログラム:
 ☆朝鮮戦争期岩国における「山口日記事件」(1953年6月)までの道のり
          山口 刀也 氏
   司  会   上田 誠二 氏

【プログラム・ノート】
 軍事基地が子どもの成長はもとより、その基盤となる生活、ひいては生命そのものまでをも深く脅かす時、学校教育やその働き手である教師には何がなし得るのか。基地問題は国家安全保障をめぐる政治の主題であるとともに、軍事環境問題や性暴力、就業形態や産業形態の変容などをはじめとする負担、被害を強いられる地域においては住民の安全やみずからの自治をめぐる政治の主題でもある。こうして基地問題はその影響から子どもを守ろうとする教師に対してその役割を問うとともに、福祉や政治などの営みとの関わりにおいて「教育」の範疇を問い直す。
 報告者は朝鮮戦争期の山口県岩国市の教育をめぐる状況に焦点を当て、基地問題が深刻化するなかでの教育のあり方を調べてきた。これまでは主に公立小中学校の教師の多様な取り組みと役割に光を当てようとしてきた。対して、この度の報告では岩国の教師を取り巻き、それぞれの模索に閉塞を迫ったと考えられる事態に注目したい。
 その事態は、「山口日記帳事件」(1953年6月)と呼ばれている。当時、山口県教職員組合は教職員組合のなかでも急進的な単組のひとつとして知られていた。その山口県教組が自主編集した副教材「小学生日記」「中学生日記」(1953年4月)中のコラム欄が「偏向」しているとして岩国において問題視されたのである。通説では、対応をめぐって顕在化した山口県教育委員会と山口県教組の対立を収束させるためにも文部省や日教組が事件に関わったことから、教育と政治の関係に関する議論が広く喚起され、教育の「政治的中立」を掲げるいわゆる「教育二法」の制定を招来するきっかけになった、と位置づけられてきた。教育をめぐる保革対立の激化という1950年代を特徴づける現象の端緒のひとつというわけである。
 こうした見解を踏まえつつ、そもそもなぜ山口県教組が県下に配布した副教材が岩国を舞台にして政治問題化したのだろうか。その背景としては、山口県レベルでの教育委員会と教職員組合の対立関係とともに、岩国での反基地拡張・土地接収運動における教師の役割が指摘されてきた。双方は副教材を介してどのような関連を結んでいるのか。報告では、岩国の教育と基地をめぐる状況を軸に据え、教師たちを取り巻いた多様かつ重層的な関係性をときほぐしながら、山口日記事件が生じた仕組み、その発生経緯を考えてみたい。
  〔山口刀也氏 記〕

3月25日第659回例会(オンライン実施)吉川卓治氏の研究発表 【プログラムノート】

3月25日第659回例会(オンライン実施)吉川卓治氏の研究発表 【プログラムノート】

 <第659回例会>
*日 時:2023年3月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム:
 ☆専門学校令と私立医学校
         吉川 卓治 氏
   司  会   大戸 安弘 氏

【プログラム・ノート】
専門学校令は1903年3月26日に公布された(勅令第61号)。その第一条で「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス/専門学校ハ特別ノ規定アル場合ヲ除クノ外本令ノ規定ニ依ルヘシ」と規定された。こうした「専門学校」の定義の仕方は他の学校令とは異なっていて、高等の学術技芸を教授する学校であれば、強制的に専門学校令に依拠させることになっていたと解されている(『現代教育史事典』)。最大手の医術開業試験の受験予備校で、野口英世や吉岡弥生が学んだことでも知られる私立済生学舎が専門学校令の公布直後に廃校となったこともしばしば併せて指摘されてきた。
専門学校令の成立過程やそれが私立学校に与えた影響などについては、倉澤剛や天野郁夫をはじめ多くの研究者が検討を重ねてきた。本報告は、これらの研究成果に学びながら、専門学校令がなぜ先述のような強制性を付与され、そのことはどのような事態をもたしたのか、ということを私立医学校との関係という視角から再検討しようとするものである。
予定している内容は以下のとおり。
第一に専門学校令の成立過程を改めて検討する。先行研究でその発端と指摘されてきた桂内閣での行政整理に加え、医師数の推移や医術開業試験の内務省から文部省への移管などを背景として押さえる。第二に専門学校令公布後の私立医学校の動向を明らかにする。これまで済生学舎が注目されてきたが、ここではそれ以外の私立医学校の動きに注目したい。そして第三に、専門学校令の厳格な適用を目指した文部省が方針転換を余儀なくされていたことを示したい。このことはこれまでほとんど見過ごされてきたのではないかと思われるが、専門学校令を評価する際には重要なポイントだと考えている。参加者のみなさんから多くのアドバイスをいただければ幸いです。
   〔吉川 卓治氏 記〕

2月25日第658回例会(オンライン実施)笠間賢二氏の研究発表 【プログラムノート】

2月25日第658回例会(オンライン実施)笠間賢二氏の研究発表 【プログラムノート】

<第658回例会>
*日 時:2023年2月25日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム:
 ☆小校教員検定に関する研究 -戦前期日本のもう一つの「教員養成」-
         笠間 賢二 氏
  司  会   小野 雅章 氏

【プログラム・ノート】
戦前日本における小学校教員の養成と供給が師範学校によるそれに尽きるものでなかったことは、日本教育史の常識と言える。教員免許状取得者に占める師範学校卒業者の割合が例年3~4割に過ぎなかった事実が、そのことを端的に物語っている。それ以外の部分は師範卒以外の方法、つまり小学校教員検定による免許状取得者だったのである。しかしながら、この小学校教員検定については十分な研究が蓄積されてこなかった。そのために、その実3割強に過ぎない部分に焦点をあてた師範教育史研究の成果をもってあたかも教員養成の全体であるかのようにとらえ、また、逆に7割弱の部分についての検討吟味を踏まえることなく小学校教員の力量や性行を総括してその責めを師範学校に帰してしまうことが、少なからずあったように思われる。こうした状況は当然に克服されなければならない。
近年、小学校教員検定に関する研究成果が徐々に蓄積されるようになってきた。だが、率直にいって、論稿の数ほどに内容が充実しているようには思えない。何件かの研究を除いて、小学校教員検定の制度的研究(制度的仕組みの研究)に力点がおかれているからである。道府県単位の事例研究は不可避であるが、①何のために、②どんなことがらを明らかにするのかについて、共通認識ができているようには思えない。
本発表では、先行研究の現状をこのように総括したうえで、次の二点を課題とする。第一は小学校教員検定をより丁寧に分析することである。輩出した教員の割合の多さにもかかわらず、その研究は、師範教育に比べて、雑駁であり貧相であった。第二は小学校教員検定をその実施過程にまで踏み込んで分析することである。ここにいう実施過程とは、検定受験者の修学歴を含めた履歴事項の分析や、彼ら彼女らのどのような側面がどう評定されたのかなど、教員検定の実施内容に踏み込んだ分析のことを指している。実施過程にまで踏み込んだ分析を行わないことには、どのような要件で免許状が授与されたのかが見えてこない。教員検定における免許状授与要件を揃えてみることによってこそ、事例相互の比較が可能となるであろう。それらを蓄積することによって、教員検定による免許状取得者がどのような力量(質)をもった教員だったのかを解明する、その一助としていきたい。
      〔笠間 賢二氏 記〕

1月28日第657回例会(オンライン実施)大戸安弘氏の研究発表 【プログラムノート】

1月28日例会(オンライン実施)大戸安弘氏の研究発表 【プログラムノート】

<第657回例会>
*日 時:2023年1月28日(土曜日)  午後3時~5時 (オンラインで実施)
*プログラム
 ☆久木幸男の近代教育史研究について(1)
            大戸 安弘氏
      司  会  須田 将司氏

【プログラム・ノート】
2004年2月5日、久木幸男(横浜国立大学名誉教授)は生涯を閉じた。時の歩みは早いもので、来年は没後20年の節目の年となる。日本教育史研究の世界において久木が果たした学問的役割の確かさと大きさとは、比肩する存在が容易には見出し難いほどであったことを否定するものはいないであろう。その79年の生涯のなかで残された豊穣な学問的業績の全体像をあらためて俯瞰し再確認することを通して、そこから今後の日本教育史研究の進むべき道筋を考える際のよすがとしたい。
久木の代表的著作は、『大学寮と古代儒教 日本古代教育史研究』(サイマル出版会、1968年)であり、古代教育史研究の領域において大きな足跡を残した。在来の研究が、例えば代表的な桃裕行『上代学制の研究』のように、時代状況との対話を見過ごし孤立分散的な解明に留まるという傾向にあったのに対して、同時代の政治状況との関係性に左右される官学との位置づけからの分析を進め、50年代後半から60年代にかけての時代にあって斬新な手法を用いたことにより高く評価された(68年に教育学博士、京都大学)。一方、横浜を退職するに際して、その増補改訂版として『日本古代学校の研究』(玉川大学出版部、1990年)が著されているが、前書刊行後の間に新たに蓄積された大学寮研究に加えて、新たなテーマである古代民衆学校の研究が盛り込まれている。古代民衆の識字をめぐる状況、民衆学校としての綜芸種智院・村邑小学の緻密な論証など、前人未到ともいうべき困難な課題にも取り組み、この領域を先駆的に開拓したといえる。
一人の研究者の成果としては、古代教育史に関する成果のみで十二分であるということもできる。しかし、久木の学問的視野は古代教育に留まるものではなかった。別紙の業績一覧に明らかなように、中世民衆の識字状況の解明を試みた教育施設としての村堂論や村校論、近世教育思想家としての大原幽学研究など、その問題関心は拡がり続け、留まるところを知らなかった。個々の論考の論証の厳密さ、鋭さにおいて、読むものの胸に深く迫ってくるものがあるという点でも特筆することができる。そのことは、68年に京都から横浜に拠点を移して以降、新たに取り組まれた近代教育史研究においても然りである。
この後、久木は『横浜国立大学教育紀要』と『佛教大学教育学部論集』を中心に、27点に及ぶ重厚な近代教育史研究を発表している。いずれも19世紀後期から20世紀へと至る過程において、天皇中心主義教育体制に対決ないしは対応した人々の実相を照射し、その体制の根幹である天皇制教育イデオロギーの混迷、矛盾、屈折を抉り出すという独自のアプローチの仕方に特徴があり、定型的な近代教育史研究とは一線を画している。 
総体で大作の単著2冊分と推定される膨大な量となる。しかしこれらは、最終的に著作として公刊されることはなかった。しかしながら、あえて近代教育史論集として構想するならば、概ね二つの主題に分類できそうである。一方は、「明治期仏教主義教育の研究」。他方は「明治期天皇制教育の研究」。今回は、前者を中心に、その全体像に迫ることとしたい。そして、久木幸男が残してくれた日本近代教育史研究の成果から、私たちは何を学びうるのか考察してみたい。
            〔大戸安弘氏 記〕

12月24日第656回例会 前田晶子氏の研究発表 プログラムノート

*日 時:2022年12月24日(土曜日) 午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年12月21日(水曜日) 午後11時59分
*プログラム:
☆幕末維新期におけるdevelopment の訳出と変容〜発達概念の形成史の試み〜
     前田 晶子 氏
 司 会 大島 宏 氏

【プログラム・ノート】
 近年、「子ども」を定義することが難しくなっている。例えば、年齢による定義は容易ではなく、2022 年7月に閣議決定された「こども基本法」では、「この法律において「こども」とは、心身の発達の過程にある者をいう」とされ、あえて年齢は明記されていない。このような子ども・子ども期の輪郭が曖昧化する傾向は、日本に限ったことではなく、子どもの権利保障や生涯発達論をめぐる論議が進む中で、単なる生物学的な物差しではなく、より複雑で社会的文脈に即した子どもの捉え方が求められるようになっている。つまり、普遍的な枠組みとしての子ども像は後景に退き、個別の「子ども理解」が重視され、発達のかたちもさまざまであると論じられるようになっているのである。
 発表者は、2000 年頃から日本における発達概念の形成史研究に取り組んできたが、この時期の研究背景として、1970・80 年代以降の発達論批判――教育思想史研究における近代教育批判や、反発達論など――があった。発達概念は、個人の能力の十全な発現という近代教育の理想を支えるものとしては十分ではなかったし、むしろその理想とは正反対の競争主義や規範主義を許容してきたのではないかという批判である。発表者は、これらの批判に共感しつつ、なぜ発達概念が日本に定着し、広がったのかを歴史的に明らかにすることを試みてきた。しかし、現在では、単なる発達論批判はアクチュアリティを失ってしまい、「発達論の不在」ともいえる状況が広がっているのではないかと考える。
 このような変化を踏まえつつ、今回の発表では、改めて発達概念の形成史を辿り、翻訳語として登場した「発達」が、日本の社会的文脈のなかでどのように受容されたのかを論じたいと考えている。この語彙は、1840 年代にオランダ語を介して日本に紹介され、1880 年代には辞書上で development との対訳関係が成立している。その数十年に渡る翻訳語の誕生のプロセスは、決して単純ではなかった。その訳出の仕事は、いわば新しい近代社会における普遍的な人間像の表象を生み出すものであったのである。その過程を辿ることを通して、概念としての有効性を失いつつある「発達」の現在的課題について考えたい。。
    〔前田晶子氏 記〕

11月26日第655回例会 大矢一人氏の研究発表 プログラムノート

*日 時:2022年11月26日(土曜日) 午後3時~5時 (オンラインで実施)
*参加事前登録の締め切り:2022年11月23日(水曜日) 午後11時59分

*プログラム:
☆「軍政レポート」の研究 大矢 一人氏
司 会 大島 宏氏

【プログラム・ノート】
 筆者は、大学院時代に占領下の地域における教育改革史研究の勉強をはじめた。その時に使った資料の一つに「軍政レポート」がある。ここで言う「軍政レポート」とは、日本が占領されていた時期(1945 年8 月~1952 年4月 ただし「軍政レポート」自体、すべての時期にあるわけでない)に、日本各地の軍政組織(地方および府県レベルを今回は中心とする)が、上級機関(主に第八軍)に各組織の活動状況を定期的(多くは一月ごとに、半月のものも少し残っており、占領初期の場合には、日報もあり)に報告したものである。占領初期から末期まで、体裁などはかわるが、一貫して報告された。もちろん府県によって残存状況は少し違うが…。なお、「軍政レポート」は、「軍政施行報告書」「活動報告書」「活動報告」「月例活動報告」といった言い方もする。
 「軍政レポート」はもともとアメリカ国立公文書館別館に所蔵されていたが、1980 年代に国立国会図書館でいわゆるGHQ/SCAP 文書をマイクロフィルム化して、憲政資料室で公開された。その後2000 年代に科研費によってGHQ
/USAFPAC 文書が複写され、さらに憲政資料室に提供されて、「占領期都道府県軍政資料」(全156 巻?)としてまとめられている。
 このような「軍政レポート」はどうやって使えばよいのか、構成・体裁はどうなっているのか、そして、「軍政レポート」を使用した先行研究にはどういうものがあるのか、日本語に訳されているものはどれくらいあるのか、などを話したいと考えている。そのうえで、「軍政レポート」によって見えてくるもの、一方で見えないものについても報告する。
専門外の方が多いのかもしれませんが、自治体史で戦後編を執筆する可能性がある方もいらっしゃると思います。その方々には、ぜひとも「軍政レポート」を一つの資料として使ってもらいたいと考えます。私は、『北海道現代史』の編さん協力委員を仰せつかっており、占領期の教育改革を担当・執筆することになっていますが、資料編において、事務局より「軍政レポート」を掲載してほしいと依頼されました。このようなことが起こるかもしれません。
「軍政レポート」の使い方を少しでもお話しできたら、と思います
               〔大矢一人氏 記〕